ムナゲのつぶやきへようこそ!

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2チャンネルの「ムナゲ」が、趣味の為に小説を書き、それをまとめたブログページです。

2010年3月29日月曜日

空色イヤホン 八章「転機」

 「ついてねぇ」
 久しぶりの雨天に愚痴を零すと、目前の雨戸が白く濁った。
 今日は苧ヶ瀬修一の周辺捜査をするつもりだった。直接話しかける事が出来ないからまで押し掛けるなんて、まるでストーカーみたいだ。昨晩そんな事を思い立って胸糞が悪くなり、眠りにつくまでは行動に起こすのを辞めようと思っていたが、こうして雨天となると、まるで第三者によって意図的に阻まれたようで、なんだか悔しい感じがする。
 基本的にこの地方の雨はストロングだ。雨量自体が大した事は無くても、吹き荒れる風が凄い。沿岸から勢いを増して上昇してくる潮風の影響で、たいていは嵐の形相になる。こういう状況で傘は殆ど役に立たず、むしろ足手まといになる場合がほとんどだ。なぜならすぐに壊れるからだ。
 だから雨天時はみんな家に籠る。どうしても外出したい場合には、全身ずぶ濡れになる覚悟で雨合羽を着用する。地方から通学してくる生徒は、地元人の雨合羽姿を最初は指を指して笑うのだが、三か月もすれば誰もが黙って蛍光色に身を包む事になる。急な雨天に備える為に、いわいる置き傘に代わって「置き雨合羽」するのが、ここ青海学園のセオリーだ。
 まぁそれでも、今日の雨はまだ良い方だろう。雨量もまだまだ小雨と言えそうだし、この程度の風なら傘がタコのように捲れあがる事もないだろう。
 「行くか」
 このまま何もしないのは悔しい。もちろんそれは半分以上あてつけでもある。有美の手も借りてしまった以上、引っ込みが効かないというのが本音だ。明日はクリスマスだし、それまでに片づける約束だ。
 レインコートを着用して、ブーツの紐をきつく縛った。
 ふと、過去の記憶がフィードバックする。
 そういえば空音が飛び出していったのもこんな日だった。雨天の中薄手で飛び出した彼女が心配になり、このレインコートを着て探しに出かけた事を思い出す。冬の雨は体温を容易に奪っていく。小柄な彼女はあっという間に冷たくなって、風邪をひいてしまうだろう。
 気がつくと、携帯がバイブレーションしている。小刻みな三・三・七拍子はメールの合図だ。差出人は有美。「雨だけど行くの?」。その心配の仕方が彼女らしい。
 俺はその問いに対して、「装備は万端。風呂は沸かし済み」と、抜かりないの事を明確に示した。雨に濡れてもすぐに温かいお風呂につかれば大丈夫だ。俺の体はそんなに柔ではない。
 その直後の有美からの返信には、「そうじゃなくて・・・↓気をつけてね」とあった。下向き矢印の絵文字が不満の色を示しているが、その真意は全くわからなかった。
 商店街を抜けて、駅前通りに出る。寂れた商店街では人とすれ違う事も無かったが、駅前までくればさすがにそんな事はない。ホームタウンゆえ、駅を利用する人はそれなりに多く、バスやタクシーに人が集まっている。潔く濡れながら走り出す人も見受けられるが、きっと家が近いのだろう。
 三丁目は、この駅をまっすぐに出てしばらく行ったところにある。三丁目自体は古くから存在するのだが、人口増加に伴って駅美化施工がされたため、綺麗な街並みだ。その折に、古くから住む人は七丁目あたりに移動しているから、三丁目に住んでいるとすれば転勤族だろう。かく言う俺達一家もその口で、俺が小学校六年生になった時に新築したのだった。
 コンビニで雨宿りをしながら、携帯の液晶を見る。有美の情報が正しければ、もう少し行った所のはずだ。沿岸ホームタウンの目玉のマンションはすでに通り過ぎてしまっているから、一軒家のはずだ。
 携帯を雨に濡らさないようにコートのポケットにしまう。畳んだ傘を開いて歩き出そうとした時、突然背中を叩かれた。
「隼人クン?」
 何事かと思って振りかえると、そこにはジャンパー姿の西倉麻子が立っていた。
「西倉、か」
「お、やっぱり隼人クンだ」
 麻子はにやついた後、ウィンクする。ニットにジャンパー、ショートパンツにゴム長靴というあくの強い組み合わせだが、なぜかあまり違和感がない。生足が冷気に晒されていて、正直見ているこっちが寒くなる。ビニール袋を持っているところをみると、買い物帰りのようだ。
「何してんだ、こんな処で」
 彼女はビニール袋を持ち上げる。その動作は見ればわかるだろうと言っているようだ。
「買い物。ナプキン切らしちゃってさ、薬局遠いしコンビニでいいやって感じで」
「そういう報告はいらねぇよ。てかだからそんな格好なのか」
「そうそう、家近いからね。んで、なんか見たことあるなぁって後ろ姿を発見してさ。なかなかこっち向かないから」
 西倉麻子は淡々と答える。
「そうか。てか確認しないで肩たたいたのかよ。もし違ったらどうすんの」
「そんときゃごめんなさいって言う」
 西倉は一年の時からの有美の親友だ。有美とは違ったベクトルで目立つ容姿をしていて、正直好みじゃあ無かった。だが彼女のその容姿が男に受けるのも頷ける、派手な感じの美人だ。ギャルと言ってしまえば話が早い。俺自身は直接話す事は多くはないが、有美から聞く限りでは中々話の分かる奴で、良い女そうだった。
「お前、度胸あるよな」
「そう?普通じゃん」
 そう言って彼女はビニール袋からアイスバーを取り出して、紙パッケージを雑に握りつぶしてゴミ箱に押し込む。一口目を食べる彼女を寒くないのかと思い見ていると、「いる?」と差し出して来たので、「いい」と遠慮した。
「苧ヶ瀬宅にはもう行った?」
 西倉からの振りに一瞬ドキっとする。よくよく考えれば、苧ヶ瀬の住所を教えてくれたのが西倉なので、それを知っていてもなんらおかしくはないのだが。やましい事をしている訳でもないのに、俺の良心は軋んで臆病になっているようだ。犯罪者の逃亡時の心境はきっとこんな感じだ。
「まだ、これから行こうと思っていたところ」
「案内しよっか」
「いいのか?」
「うち、近いし。ついでついで」
「そうか、悪いな」
 家が近いという事は聞いていたし、特にその好意を無下にする理由も無かったので、甘える事にした。そういうと彼女は傘立てから真っ赤な傘を引き抜いて、天空へ勢いよく広げた。俺はひと際目立つその赤を見つめながら、ビニール傘をゆっくりと広げた。
「しかし、雨なのに良くやるねー」
 アイスバーを胃袋にしまいこんだ彼女は、傘の柄にぶら下げていたビニール袋を手に持ち直して、そのままポケットに突っこんだ。
「まぁ、特にやることもねぇしな」
「バンド練習とかは?」
「ない。メンバーは忙しいらしくてよ」
「へー、バイト?」
「違う、これ」
 傘を持っている手の小指を立てると、西倉は「あー」と納得したようだった。
「クリスマス近いしね」
 大通りを逸れて、住宅街に入っていく。ここいらは集合住宅が多く、斜めに連なる洋風の屋根が瀟洒な雰囲気を出すのに一役買っている。西倉がここら辺に住んでいるという事は、彼女もやはり転勤族なのだろうか。
「隼人クンってさ、A型でしょ」
「そうだけど、なんで?」
「やっぱり?見るからにA型って感じするから」
「そうか?そういう西倉は?」
「あたしAB。超気分屋」
 血液型で性格がどうのこうのという話のようだが、全く興味の無い俺には、的を得ているのかどうかも分からない。とりあえずAB型は超気分屋という特性を持ち合わせているのが、その筋の話題では常識なのだという事は何となく読み取れはした。
「有美はやっぱりOって感じ」
「それってどんな感じ?」
「大雑把でマイペース。あと愛想がよくて、何考えてるか分かんないとか」
「ああ」
 なるほどな、と思った。最初の二つについては誰でも持ち合わせている部分ではないかと思うが、後者については通じる部分がある。
「ちなみに萩原って」
「あいつ超ドB」
「なるほどね」
 どれくらい前だったか、萩原と西倉は付き合っていた。女泣かせで有名な萩原にしては長く付き合っているとは思っていた。有美からも話は聞いていたが、なるほど、こういう女だったのか。こんな調子なら、逆に泣かされていたのかも知れない。
「ついた、あそこ」
 彼女が指差したのは集合住宅の一角だった。T字路に面した角にあって、美化施工の後に引っ越してきた事は確実に思えた。西倉の傘に負けず劣らずの赤い屋根は、素人にも分かる「オシャレ感」を醸し出している。
「ちなみにあたしん家はあっち」
 彼女はT字路の奥を指差した。美化施工によって建設された集合住宅はこの角が最後のようで、その向こう側には古そうな、オシャレでもなんでもない一般的な日本家屋が並んでいる。彼女の指はその突き当りに位置する一軒家に向けられている。
「本当に近いな」
「でしょ?びっくりだよね」
「これだけ近かったら見かけてそうだけど」
「それが無いんだよね。あたしバト部だし、遅刻常習犯だし」
「・・・そうか」
 苧ヶ瀬は遅刻はしないようだったし、帰宅部だったから西倉とリズムがずれていてもなんらおかしくは無かった。それに西倉のような女だったら、苧ヶ瀬のような地味な男を見かけた所でわざわざ覚えていないだろう。同じ高校の制服だとは思いこそすれ、彼に注意を払う理由は西倉には無い。
「んで、これからどうするの?カーテンしまってるし、見るからに留守だけど」
 苧ヶ瀬の名札が掛った家は、すべての窓でカーテンが閉められ、人影を感じない。部屋に電気がついていれば、薄暗い今日ならすぐに分かるはずだ。
 しかし俺は何をしに来たんだろう。今さらながら、自分の行動が理解出来なかった。チャイムを押して確認する事も出来たが、日常生活で声もかけられない相手なのだ、わざわざ家に押しかけたところで出来ることは無い。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど、なんで苧ヶ瀬クン追ってんの?」
 玄関を見つめて硬直する俺を覗き込むようにして話しかける西倉。
「あいつになんかあんの?」
 それは俺が知りたい事だった。
「わからないけど、なんか気になるんだよ」
「気になるって?」
「気づいたら、俺はあいつを目で追ってるんだよ。どんな奴かも知らないし、もちろん男色なんてこれっぽっちもないよ。けどやっぱり気がつくと、俺の目はあいつの背中に突き刺さってるんだ」
「背中、ね」
「俺もどうしてかはわかんねぇよ、けど、気持ち悪いじゃんか、そんなの。きっと、理由があるはずなんだ。けど、その理由がわからない」
 それは無意識的だった。気がつくと、その背中を見つめている自分がいる。それはちょっとした恐怖だ。相手が女なら、恋心だなんだの適当な理由をつける事も出来るが、相手が男となるとそうはいかない。それだけに余計に不安は募る一方だった。
「それで、会ったら何か分かると思ったんだ」
 俺は無言で頷いた。そんな理由でわざわざこんな所まで歩いて来たが、結局収穫は無かった。
「あんた臆病だね」
「え?」
「隼人クン、臆病な人なんだよ。話しかければ済む問題なら、学校でそうすれば良かったんじゃん。でもそうしないのは、臆病だからでしょ」
 驚きのあまり目が点になる俺を気にも留めず、彼女は淡々と続ける。
「その理由を知るのが怖いとか。学校で浮いた存在の苧ヶ瀬クンに話しかけれてるのを見られるのが怖いとか。いずれにせよ、今の生活が変わっちゃったりする事が、怖いんじゃないの」
「そう、なのか?」
「だってうちらの年齢なら、好奇心に突っ走っちゃうくらいが普通でしょ。それが出来ないってのは、やっぱ怖いからでしょ」
 づけづけと物を言ってのける女だった。自分でも気づいていなかった内面に、まさに土足で踏み込まれたような感覚。なのに、不思議と腹が立ってこない。
「西倉は怖くないの?」
「あたしは喜んで受け入れるけど」
「度胸あんな、やっぱ」
 俺が関心してみせると、俺の目を見るなり彼女は「あー、なるほど」と顎を触って見せた。
「え、何?」
「いや、こっちの話。まぁとにかく、あたしは、変化は良いことだと思ってるから、何かそのきっかけがあれば喜んで拾いに行くよ。じゃないと、退屈しない?」
「そんな事、考えた事も無かった」
「まぁそういうのは人それぞれだと思うけど。せっかくいい機会なんだし、どうせなら思い切ってガツンと行けばいいじゃん。それで何か失う訳じゃあないんだし」
 そういって西倉は笑って見せた。
 俺は心底、こいつの事を尊敬した。同世代の女は馬鹿ばっかりだと思っていたが、そうでもないのかも知れない。少なくとも目の前にいる西倉という女性は、しっかりと自分を持っていて、度胸があって、それでいて頼もしかった。そろそろ行くね、という彼女に、お礼を言いたかった。
「西倉、お前」
「麻子でいいよ」
「えっと、麻子、お前、良い奴だな」
 彼女はにやりとして、
「雑誌の受け売りだけどね」
「言わなきゃかっこいいのに」
 彼女はハハハと短く笑った。俺も思わず笑顔になる。こんなすごい娘が親友なら、有美も心配いらないと思った。そしてその保護者染みた思考に、少し恥ずかしくなる。
「そうそう、余計な事だと思うけど」
 数メートル離れた所で彼女は振りかえる。
「灰谷クンと有美の話、あれ、誤解だから」
「え?」
「詳しくは本人に聞いてみてー」
 そう言って彼女はくるりと回って真っ赤な傘を肩に担いで帰っていく。
 励まされたと思った。そう思うと、急に肩の荷が降りたように体は軽くなり、思考はすっきりした。
 そうだ。俺は何をくよくよしていたんだろう。こんなのは、ちっとも俺らしく無いじゃないか。
 まさか女子にこうして諭される事があるなんて思わなかった。西倉麻子はすごい奴だ。
 俺は彼女の後ろ姿を最後まで見送って、心の中でその背中に「ありがとう」と言い続けた。

 帰り道、気がつくと雨は上がっていた。雲の合間から差し込む光が、なんとも眩しい。こんな時の太陽の光ほど、ありがたいものはない。そう感じてしまう。そういえば、あの日もこんな感じだった。
 空音を祖父の工房で見つけて、二人で手を繋いで帰ったあの日。俺は兄妹のつながりを感じていた。それは、血という物理的なものではなく、もっと精神的な何か。俺達はこの先もずっとこうして支えあっていくんだと思っていた。あの小さく弱い手を、どこまでも引いて行ってやるつもりだった。
 不真面目な俺と違って、空音は生真面目だった。幼少の頃、ピアノを習っていた俺に続くようにピアノを習い始めた彼女だったが、あっという間に俺を追い越していた。元より音楽的素養に恵まれていたという節もあるだろうが、彼女の場合はどちらかと言うと秀才タイプだったように思う。
 最初のコンクールがその始まりだった。同世代の女の子ではとても弾く事すら適わないような難曲を演目に挙げていたのが周囲の目に留まり、注目を集めた。地域の末端とも言える寂れたコンクールだったが、だからこそ余計に、八歳の少女が難曲に挑戦するという話題はメディアにとって格好の的だった。当然、メディアと言っても地域新聞やローカル局の撮影がせいぜいであったし、その動機は栄光の瞬間を収めようという精神の類では決して無かった。「どうせ弾きこなせる訳がない」という、知識人達の冷やかしが主な原動力であり、そして高視聴率を見込める本筋であった。
 ところが空音は本番で、一つのミスもなく弾き切ったのだった。そればかりか、ちゃんと音楽的表現がなされていた。
 周囲は驚いた。指の運動と考えれば、おたまじゃくしをミスなく弾く事はそれほど難しい事ではないのかも知れない。だがしかし彼女はその上の次元の、解釈可能な演奏表現を行っていた。それはつまり、おたまじゃくしを一つも間違わずに演奏出来るだけの技術を既に持ち合わせていて、余裕を持ってその上のレベルで演奏をしていたという事になるからだ。彼女は初出場のコンクールで栄冠を手にした。
 そしてこの瞬間、彼女の人生の殆どが決定してしまった。
 「天才少女現る」とありきたりな見出しが地域を騒がせたのは言うまでも無く、ただでさえ話題に乏しい田舎町だったから、その注目度は抜群に高かった。そしてその強すぎる関心は「期待」という名の束縛を生み、彼女の生活を圧迫していた。
 彼女は決して天才などでは無かった。好奇心旺盛な彼女の原動力の大半はそこにあった。たまたま兄弟が習っていたからという理由で興味を持っただけで、だからこその練習だった。年齢を重ねるごとに視野が広がっていくと、彼女にとってピアノは興味の対象の一ファクターでしかなくなっていった。
 しかし周囲はそれをよしとしなかった。彼女の興味がすでに失われかけていようとも、周囲の期待という拘束が解かれる事は無かった。よりによってその圧力の最たるが母親だったからタチが悪く、彼女が練習を拒否するようになれば、二人の関係に溝が生まれるのは明白だった。
 そんな彼女が救いを求めたのが俺だった。俺はとうにピアノをやめていて、中学入学を期に本格的に始めたバスケに夢中になっていた。練習相手がほしかったのもあって、鬱憤で膨れ上がった彼女を連れ出しては、泥んこになるまで遊んでいた。生真面目な彼女は真摯に遊び倒して、そんじょそこらの男の子より上手くなっていた。
 また祖父の職であるガラス細工にも興味を持ったようだった。俺が部活で帰りが遅い日は代わりに祖父に構ってもらっていたようで、たまに作らせて貰っていた。そこでも彼女の勤勉な気質が功をなし、彼女が中学入学を控えた頃には、一人前にグラスを作れるようになっていた。
 そんなある日、事件は起こった。
 母親の強烈な平手打ちを受けた空音は、「やめてやる」と大声で叫びながら家を飛び出していった。どうやら空音がガラス職人を目指すと言ったことが、母親の逆鱗に触れたらしい。興味をなくしたピアノの練習など空音にとっては最早拷問でしか無く、そんなさぼりがちの娘にいら立ちを募らせていたようだ。口論の末放たれた平手打ちは彼女の面子をも傷つけたようで、完全にきれてしまった彼女は、「ピアノの練習は続ける」という自身が最初に打ち出した妥協案も放棄してしまったようだ。
 いつかはこうなるだろうとは思っていた。時間の問題だと。
 それでも俺は俺なりに彼女を心配していたし、力になりたいとも思っていた。窮屈そうに日々を送る彼女の少しでも助けになればと、色々な努力をしたつもりだった。
 でもそれは自己満足に過ぎなかった。
 だから俺は、彼女と最後に交わしたあの約束を、未だに果たせていない。


 気がつくと、防波堤と向かい合っていた。どうやら無意識のうちに、自宅から逸れてこちらに歩いてきてしまったらしい。何かにつけてこの海に遊びに来ていたからだろうか。潮の香りはいつも新鮮で、どこか懐かしい。
 そういえば、有美と来る事はあっても、空音と来たことはあまり無かった。
 立ち去ろうとした時、俺の視線が何かに突き刺さった。
 防波堤にそって五十メートルほど先、自転車を起こすその背中には見覚えがあった。私服姿、重たそうなジャケットを羽織っているが、間違いない。苧ヶ瀬修一だ。彼は起こした自転車を立てかけ、汚れを払っている。しかしなぜこんな所に奴が?
 ふいに、麻子のあの一言が頭を過る。
「それで何か失う訳じゃあないんだし」
 俺は傘を握りなおして、全速力で駆けだしていた。

「おい苧ヶ瀬!」
 久しぶりの全速力だった。苧ヶ瀬は急に呼ばれて振りむけば、凄い形相で全速力で駆けてくる俺を見て驚いたようで、勢い余って数メートル程通り越した俺を、その場で立ち止まって首から追っていた。
「お、苧ヶ瀬修一」
 俺がフルネームで呼ぶと、彼は警戒の色を浮かばせていた。困惑したその表情の中に、この人物がだれなのか、記憶と照合している様子が伺える。
「えっと・・・」
「俺は、お前のクラスの、羽立隼人だ」
 彼はようやく、ああ、と言って俺の存在を理解したらしい。予想通り、クラスの奴に対しての関心が薄いようだ。
「どうも」
 呼吸を荒立てている俺を覗き込むようにして礼をして見せる彼からは、今度は困惑の色が露骨に放たれていた。
「あ、えっと、なんだその、こうして話すのは初めてだったな」
「?ああ、そうだね」
 一体何を言っているんだ俺は。紹介して貰った相手と初めて電話した時のような、キモチワルイ事を言っている自分が嫌だった。紹介して貰った事なんてないけど。
「家、ここら辺なのか?」
 白々しいのが痛々しい。幸いにもそう思うのは俺だけだったろうが、心底、自分を見損なう。
「いや、三丁目の方。自転車で二十分くらいは掛るかな」
「そうなのか。なんでまたこんな所に」
「んーちょっとね、散歩かな?君は、えっと、羽立君、は、なんでこんな所に」
「いや、俺はあれだ、家がここら辺なんだよ」
 なんとか会話が成立して、ほっとする俺。苧ヶ瀬の表情からは警戒や困惑の色はすっかり抜け落ちている。意外と分かりやすい奴なのかも知れない。
「へー、いいね、羨ましい」
「まぁ学校近いしな」
「いやそうじゃなくて」
「え?」
「海、近いから」
 そう言って彼はその視線を、防波堤越しの海へと送っている。
 そういえば、俺は初めて苧ヶ瀬の声を聴いた。意外なほど澄んだ声をしていて、中世的な要素を感じる声。ボーカルとして歌えば、栄えそうな気がする。
「海、凄く綺麗だから」
「ああ、この海か。俺のお気に入りの場所だよ」
 自分の事でもないのに、つい自慢げな態度をとってしまう。幼き頃から通い詰めた景色の素晴らしさを伝えたかったのかも知れない。しかしこの海に目をつけるとは。中々分かる奴だな。良い感性を持っているに違いない。と、好みが共通の相手に対してはひいき目で見てしまうのが人間の心理だと思う。
「最近知ったんだけど、僕も、それから毎日通ってるよ」
「毎日?そりゃ熱心だな」
「特にやることもないからね」
「受験は?」
「推薦で決めちゃったから、なんもない」
「そっか」
「羽立君は?」
「俺、もだな」
 話題を振り間違えたと思った。実際は推薦なんて受けてない。ついでに受験するつもりもないが、それをこの場であえて言う必要はないと思った。
「所でお前さ、聴きたい事があんだけどさ」
 俺はいよいよその疑問をぶつける事にした。彼は仕切りなおして構える俺を不思議そうに見ている。
「お前、なんでいつもイヤホンしてんの?」
「え?」
「いやほら、なんだっけ、あのメーカー。とにかく良い奴、いつもしてんじゃん?俺も結構聴く方だから、普段何聴いてんのかなって。度胸あるなっつうか」
「ああー」
 彼はそう言って合点のいった表情を見せた後、少しの間を持って答えた。
「あれは、癖かな」
「癖?」
「そう、癖」
「癖って、イヤホンをするのが癖って事か?」
「そんな感じかな」
「んじゃあ別に何か聴いてる訳じゃないのか?」
「そうだね」
 イヤホンをするのが癖というのは、一体どういう事なのか。音楽を聴きすぎるあまり、装着する癖がついてしまったのだろうか。それとも装着している事によって落ち着くのだろうか。訳が分からなかった。むしろ謎は深まってしまった。
 しかし、なんだろうこの感覚。あの間と良い、急に回答のピンとがぼやけた様な気がする。その曖昧さは、話を上手く誤魔化そうとしている時のそれに、良く似ているよる。いや、どちらかといえば、話をはぐらかそうとしている時の方が近いかも知れない。
「んじゃそろそろ」
 彼はそう言って自転車を商店街へ向けた。
「え、ああ、そうか、気をつけてな」
 特に用事があった訳ではないので、俺に呼び止める術は無かった。まだまだ話足りない気はするが、話したところで、核心に近づけるとは思えない。そもそも、その掴もうとしている核心がなんなのか、俺には分かっていなかった。
「あ、そういえば」
 数メートル先で振りむきながら言う。
「ここら辺って、羽立って名字、多いの?」
「ん?いや、そんな事はないんじゃないか?俺は他に聞いたことはないけど」
「そっか」
「なんでだ」
「珍しい名字だと思って」
 彼はそう言って、自転車に飛び乗って手を挙げて、立ち漕ぎで商店街へと向かった。お前の名字も十分珍しいよと思いながら、俺はその背中を追っていた。

 今日は良く知りあいに会う日だな、と思った。それもそんなに近しくない同級生に。お陰で新郎が物凄いが、その分収穫は大きかった。特に、あの苧ヶ瀬修一と接触する機会が得られたのは本当にラッキーだった。結果得られた事は殆どないが、それでも大きな進歩だ。俺は改めて麻子に感謝した。
 意外と普通に喋る奴だったな。あんな調子だから口下手かと思いこんでいたが、ちゃんと普通にコミュニケーションが取れた事に驚きだ。
 それにあの声。全体的にあか抜けない雰囲気の苧ヶ瀬だが、声だけは違う。海のざわめきの中にも関わらず、良く通る綺麗な声だった。俺の持つ奴のイメージをぶち壊す、存在感のある声だ。
 奴を直接話して分かった事と言えば結局それくらいだった。イヤホン着用の謎は余計に深まり、その妙な存在感の背中についても、分からず仕舞いだった。
 ただ今日、奴の背中を見てひとつ気がついた。
 彼は決して存在感を放っている訳ではない。むしろ、吸い込んでいるように思える。つまり、内側から外側へ放出するのではなく、逆に、その背中へ吸収されるかのような感覚。プラスではなく、マイナスのベクトル。俺の視線は、そのブラックホールに吸い込まれている。
 錯覚かもしれない。だが対面によって余計にぶれてしまった苧ヶ瀬修一の輪郭は、そう言った錯覚を生じさせる。
 俺が抱く奴への関心の正体は、一体何なのだ。

 玄関を開けて靴を脱ぐと、何かが違う事に気がついた。居間から伝わる空気は、思い緊張感を感じさせる。
「ただいま」
 ドアを開けると、両親が向かい合って腰をかけていた。神妙な面持ち。
「お帰り」
 いつもなら明るい父の声だが、その能天気さが一切も伺えない。
「何かあった?」
 ただならぬ雰囲気だった。俺はレインコートを椅子にかけて座り、対面の母の表情を伺った。
「ちょうどいい所に帰ってきたな」
「そうね」
 共に飲みかけの珈琲はすっかり冷めてしまっている。随分と前からこんな状態だったのだろうか。
「どうした?」
 すると母はこちらへ手を伸ばし、俺の両手を包み込むように握った。母の手は、冷え切っている。そして、 俺にゆっくりと告げた。
「え?」
「これ以上、私たちのわがままには付き合わせたらかわいそうなのよ」
 あまりの衝撃に、理解が伴わない。母が、何を言っているのかが分からない。
「いま、なんて?」
 混乱する俺に、今度は父が、ゆっくりと告げた。
「空音の生命装置を外す事にした」