最後に繋いだその手の感触を、今でもはっきりと覚えている。
肉付きが少ない細い指。
肌理の細かい柔らかい肌。
綺麗に磨かれたピンク色の爪。
やや冷たい体温。
そして絡み合う意思。
それは僕が繋いだ、最初で、最後の、愛しい手。
風が吹き抜ける甲高い音で浅い眠りから覚めると、時刻は十時を回っていた。
目覚まし時計に延びるその手が汗ばんでいる。その表面はひんやりとしていて、指先の周辺はあっという間に結露した。
いつもなら窓から差し込む陽光の眩しさで眼が覚めるのに、今日はあいにくの曇天のようだった。部屋の中は薄暗くて夜明け前のようで、久し振りの寝坊の原因かも知れない。
すっかり冬の温度に包まれた室内に対して、僕の体は熱いくらいに火照っていて、全身から汗が噴出していた。窓についた結露の原因は僕かも知れない。顔面を伝う汗を上着で拭き取ろうとするが、既にその許容量を迎えた上着は、その役目を放置して、逆に僕の顔面を湿らせた。
夢を見るのは脳が記憶の整理をしているからだと言う話を聞くけれど、少なくとも僕の明け方の夢に関してはその通りだった。
薄れゆく記憶もある中で、一向にその鮮明さを失わない記憶の一端は、こうして僕の精神を蝕むかのようだった。大量の寝汗の原因は、そこにあるように感じる。
「空・・・黒いな」
今にも降り出しそうな天空は、灰色と黒の濃淡によって覆われている。昨日までの青さが嘘のようで、いよいよお天道様もご機嫌斜めの様子だった。気分屋がその本質だから、今までの調子が良すぎたのかも知れない。
階段を下りて無人の居間を通り過ぎ、風呂場に直行した。目覚めと気分が悪かったし、全身にまとわりつくような汗が鬱陶しい。
シャワーを顔面から浴びて、海の事を思った。先ほど見た感じだと海は荒れていそうだ。あの海を知ってから一度も天気が崩れた事は無かったから、初めて見る景色になるだろう。
あの老人はどうしているのだろうか。こんな荒れ模様でも、変らずあの場所で腰を下ろして眺めているのだろうか。
「答え」を、待っているのだろうか。
自室に着替えを取りに戻ったときには、既に雨の匂いが入り込んできていた。小雨。窓から見下ろす路地のアスファルトは、まだ湿りたてと言った様子で、その表面に水が溢れている様子はない。
外はきっと寒いだろう。風もある。冷たい雨は僕の体温を奪っていくだろう。そうしたら風邪をひくかも知れない。
でもそれもありかも知れない。体調を崩した所で問題は無い。やり遂げなければならない事も無いから、時間はいくらでもあった。
行こう、あの場所へ。
そうと決めたら居てもたってもいられなくなった。雨の気配を探ることも、雲の流れを読むことも、天気予報に耳を傾けるのも、全てがどうでもよくなった。
手を伸せば届いたモスグリーンのジャンパーをハンガーから引き摺り下ろして、脱ぎ捨ててあったジーンズをそのまま履いて部屋を飛び出した。
悩んでいる時間が勿体無かった。
きっと、どうせ濡れるのだから。
それならば、少しでも早く、今日の海に出逢いたい。
時間は沢山あるはずなのに、不思議な感覚だった。
玄関を開ければ当然だけれど、雨だった。あたり一面が冷え切って、飛び出した僕に冷気が襲い掛かる。
少し薄着だったかも知れない。けれども、後戻りはしたくなかった。
サドルの水滴を右手で拭い去る。右足を持ち上げて飛び乗ったら、そのまま蹴りだした。
何を急いでいるのか。自分でも分からない。
ひょっとしたら僕はあの海に魅入られてしまったのではないだろうか。
僕が空っぽだったから、あの雄大さが、僕を満たしてしまったのではないだろうか。
だから僕はこうして、雨の中、飛び出しているんじゃないだろうか。
それともやっぱり僕は、海に救いを求めているのだろうか。
自分の行動の動機は分からない。この足が力強くペダルを踏み込むことに、理由が必要だとは思わない。
ただ今日こそ、聴かなければならない。
あの老人の名前を。
本気を出した冬の気候は、人を容易に室内に閉じ込めた。人通りはほとんどない。数台の車とすれ違っただけで、商店街には傘を片手に自転車にまたがる僕一人だけ。ギアを軽くして、一番走り易い所を選んで、懸命に登った。ゆるやかとはいえ、それなりに長い上り坂。片手に傘を持った片手ハンドルでは上手く力を込められず疲れる。吐き出した息は白く濁って景色に溶けていく。太もも辺りがすこし震え始めたけれど、込めた力を緩めることはしなかった。ランナーズハイ、とてでも言うんだろうか。そうして何かに向かっていくことは、不思議と悪い気がしない。
パンチラ坂を通り過ぎて、細い路地へと入っていく。砂利にハンドルを取られないようにしながら、最高速度を意識した。民家の間を海へと下るこの道は、いつもにも増して難関コースだった。弾ける泥水がジーンズに付着するのが分かる。靴下はとうに茶色く染まっていた。
防波堤に自転車を停めて、踏み台にする。雨によって滑りやすくなったその車体で、バランスを崩しそうになる。すんでの所で防波堤にしがみついてよじ登る。道路側に向けて倒れこむ自転車には目を暮れず、その視線を海岸に送った。
海はここでも雄大だった。
その青いコンストラストは失われて、泥のように染まった海面と、薄暗い空。まるで風景から色素が抜け落ちてしまったかのような、モノクロームの水平線。眩しさと優しさを失った海は、代わりに激しさと悲しみを感じさせた。
桟橋へと目を凝らす。
先のほう、あの背中は変わらずにそこにあった。そのコートの灰色は保護色のように働いて、景色に一体化している。初めから風景の一部であったかの様に。
僕は駆け出した。
やっぱり、彼はいた。
僕が背後に駆け寄ると、老人は驚いたように振り返った。
「おや、どうしたのかね?びしょびしょじゃないか」
僕が握り締めた傘はもう殆ど機能していなかった。冷たい感触が全身を包み込んでいて、衣類はいつもより倍くらいの重さになっている。息を整えても、その重みはけだるさを感じさせた。
「こんな雨の中、何をしているんですか」
その時、僕は何かの衝動に駆られるのを感じた。
この感情は怒りなのだろうか。
だとしたら何に対して怒りを感じているのだろうか。
老人を前にして突然競りあがってきた感情の整理がつけられない。僕の声色はそれが露になっていただろう。
「答えを待っているのだよ」
彼は帽子を目深に被りなおして、モノクロームの水平線へ目を送る。
「あなただってずぶ濡れじゃないですか」
彼は側に傘を立てかけるようにして腰を下ろしていたけれど、沿岸の強い風の前には関係が無かった。斜めに振付ける雨は、老人の肩を黒く染めている。
「待ってて来るもんなんですか」
なぜこんなに腹が立つのだろう。他人の事のはずなのに、自分の事のように腹がった。
そうだ、これは怒りだ。
こうしてずぶ濡れになりながら待つその姿に、僕は腹が立っているのだ。
「答え」という言葉が何を指しているのか分からない苛立ち。
待っているものが三年経っても来ないという苛立ち。
その辛さを共有できない苛立ち。
その苛立ちが、僕の腹を立たせているのだろうと思った。
「答えって、なんなんですか」
彼は僕の吐き出した感情をただただ、その広い背中で受け止めていた。
「君に風邪をひかせる訳にはいかない」
彼はしばらくの間の後そういって、膝に手をついて重い腰を持ち上げた。傘を左手に、その素足をびしょ濡れの革靴に滑り込ませて。
「ついてきなさい」
防波堤に沿うように進んで十五分。桟橋からはそう遠くない。
その場所は工房と言った感じだった。大きな炉のような物が一つ、部屋の中央で熱気を放っている。その側には幾何学的な形をした金属の塊や、長くて細い鉄パイプのような物が、コンクリートの地面に無造作に置かれている。そして部屋の壁には棚のような段差が設けれていて、人目見ただけではどのように扱うのか分からない、機械とか器具と言った感じのものが並べられている。
炉を右手にみた空間には、大きな平らい、作業台らしきテーブルが置かれていて、こちらも金属片、軍手等が散乱している。そのさらに左手には階段があり、その隅には細長い空間が存在していて、壁一面が棚のような構造をしており、多数のグラスなどが陳列されていた。それらを見て、なんとなくここがガラス工房なのだろうなという察しはついていた。
「その前で温まるといい。近すぎると危険だから、気をつけなさい」
老人はそういって奥の扉へ向かった。僕は炉の前に置かれた小さい椅子を少し引いて腰を下ろす。
煩雑で、無機質。そんな印象だった。灰色の空間は炉が放つ橙色の光りに揺れてる。その光景は幼いときに見た、トンネルの中のような。
こんな所であのカモメは生まれたのだろうか。あのガラスの魔力を教えてくれたガラスのサイコロも、あの陳列されたグラスたちも、全てこの場で生まれたのだろうか。
着替えを終わらせてきた老人は、僕の肩にタオルを駆けて、なにやら湯気を立てるカップを差し出した。
「風邪をひいてしまってはいけない。よく拭いて、温まりなさい」
そういって、作業台に腰をかけ、カップを口に運んだ。僕に手渡されたカップには香ばしい黒い液体が満たされていてた。
「ありがとうございます」
やけどしない様にゆっくりと口に含む。思ったよりも熱くなくて、体に自然と染み渡るようだ。
「コーヒー、おいしいですね。お好きなんですか?」
珈琲のよしあしが分かるほど大人びた味覚はしていなかったけれど、今までに飲んだどんな珈琲よりも豊かな香りで、おいしいと思った。恐らくおじいさんの作品であろう上品なカップに注がれて、より一層高級に見える。
「作業をする時はいつも飲んでいたよ。特別に好んでいた訳ではなかったのだが、続けているうちに癖になってしまってね」
老人はそういって目を閉じて、その香りを味わっている。
「ここでいつも作業を?」
「そうだよ。と言っても最近は殆どやらないのだがね」
「え、どうしてですか?」
「作れなくなってしまったんだよ」
彼は炉から覗く光を見つめている。老人は朱色に照らされていて、僕のところからではその表情は読み取れない。だけどその背中は初めて見た時と変わらずで、何か寂しそうな、悲哀のような物を醸し出している。
「それは、なぜですか?」
作れなくなった。彼はそういった。それはなぜだろう。
僕が芸術を語るにはまだ若すぎるという事は理解しているつもりだ。
けれど、そんな僕でも分かる。彼の作品は素晴らしい。
少なくともあのカモメにしたって、このカップにしたって、あの棚に飾られたグラスや花瓶は、僕を強く惹きつけた。今まで何気なく生きてきたけれど、こうして、何か「モノ」に対して興味を惹かれた事は無かった。
そんなものを作れる彼が、なぜ、作れなくなってしまったのか。
物理的要因だとしたら、なぜそれを許容しているのか。打開策は本当に無かったのだろうか。
僕は疑問に感じた通りに質問を投げかけていた。けれどそれが、彼の私情に入り込む事だと言う事に、その時は気がついていなかった。
彼は立ち上る湯気を見上げている。
「何も出てこなくなってしまったのだよ」
僕はすぐに後悔した。人のとても繊細で柔らかい所に、僕は土足で踏み入れてしまった、と思った。
「すみません」
「いや、いいんだ。もう三年になる。今更どうこう思ったりはしないよ」
「三年・・・ですか」
「ああ、それくらいからだな。私はどうやら、迷ってしまったようなのだよ」
彼は炉の脇からパイプ椅子を持ち出して、僕の横に座る。老人のセーターからは焼き焦げたような香ばしい匂いがする。
「自分の意思、想像力。そういった内側から湧き出るものが、体の外に出てこなくなってしまった。出口が分からなくなってしまったんだろうね」
「内側から湧き出るもの」
「そう。やりたい、こうしたい。実現する為に必要なのは、そういう魂の部分」
彼の話は時々難しかった。僕にはそれがひどく抽象的に聞こえて、理解まで結びつかせるのはすぐには無理だろうと思った。
「難しいですね」
「君はまだ若い。気にする事はない。見たところ、高校生かな?」
「今年で卒業です」
「そうか」
そういって、珈琲をすする。
「特にやりたいことも見つけられずに、大学への進学を決めてしまいました」
何故だか、そんな事を口走ってしまった。聞かれた訳でもないのに、自然と、口から次へと次へと流れ出る。
「最初は高校に進学すれば何かが変わると思ってました。何か夢中になれるものを見つけられると思ってました」
老人は黙って僕の声に耳を傾けている。
「でも実際は違った。僕は何一つ、変わらなかった」
僕は世界が変わる事を期待した。自分が変わる事が出来ないなら、せめて、僕を取り巻く環境だけでも変えたい。そうすれば、僕も変化する事が出来るんだと、信じて願った。この僕の、暗くて湿った漆黒の世界を、光が満ち満ちた、眩い世界に。
「変わらなかったんですよ」
僕には、親友と呼べる人がいた。
小さくて優しい、可愛らしく、愛しい人だった。
つかさは明るい子だった。片親で育った事を卑屈にとらえる事もなく、その寂しさを表に出すことも無かった。素直で情熱的で優しく、周囲からの評判も良かった。
僕らは行動を共にする事が多かった。家が近所だったし、不思議と気が合った。最初は一緒にいて楽しい奴だな、くらいにしか思わなかったけれど、次第に、それは思慕の感情へと変わっていった。
最初にその兆候が見え始めたのが、中学に入ってすぐの頃。母親の再婚を期に苗字が変わった
頃だった。
いつも明るく、周囲への気配りを忘れない彼女だったのに、呆けている瞬間が増えていった。窓の外を眺めで、うなだれている事もあった。笑顔は少しづつ減っていき、声のトーンも次第に下がっていって、秋を迎えたころには、すっかり笑わなくなってしまった。
一緒にいる事の多かった僕には、その変化がすぐに分かった。そしてその陰りの原因が、おそらく家庭にあることも。それは、彼女の肩に出来る染みのようなアザで一目瞭然だった。転んだ、というには無理があった。
彼女は頑なだった。僕が家庭環境について問い詰めても、頑としてそれを認めなかった。二言目には、「お父さんはいい人なの。お母さんはとても幸せなの」と言って、埒があかなかった。
いよいよ幼い僕一人ではどうすることも出来ないことを理解した。彼女の笑顔を取り戻したかった僕は、幼子頃なりに頭を巡らせ、周囲の大人達に援助を求めた。
けれど、そういった家庭の複雑な事情に進んで肩入れしたい物などおらず、また学校もそうだった。
僕は無力だった。
冬休みを間近に控えたある日、彼女が学校を無断欠席した。それを知った三限目、僕はその場で早退して、彼女の家まで全速力で走った。
今までどんな事があろうと、彼女が学校を無断欠席する事など無かった。背筋を穿つ悪寒に、駆けださずには居られなかった。
彼女の家の玄関は鍵は閉じられておらず、誰もインターホンにも応答しなかった。僕は彼女の部屋まで向かった。
そこで対面した彼女は、机の上で突っ伏して項垂れていた。
周囲は手首から溢れ出るそれによって真赤に染まっていた。
「結局、何にもしない三年間を過ごしてしまいました」
僕は天井を見上げた。埃まみれで鼠色に染まった、採光天窓があった。絹のようなクモの巣がまとわりついていて、今にも煤と一緒に落ちてきそうだ。
「僕は変われるんだろうか」
自分でも何を言いたかったのか、良くわからなかった。口が勝手に、僕の心の内を晒していく。老人が何も言わないから、僕は誰もいない空間で、ただ独り言を漏らしているようだった。それは僕をひどく冷静に保っていた。
「君も、答えを待っているんだね」
沈黙を決め込んでまるで仏像の様だった彼は、重々しくそう言って、カップを作業台にコトンと置いた。
続く言葉を待っていると、彼は何も言わずに歩き出す。この位置からでは薄暗くて、階段の隅はすでに闇だった。彼はそこへ迷いもなく、しっかりとした足取りで向かっていった。ごとごとと数回の物音ののち、胸に何かを抱えて戻って来る。埃がかぶった作業台を腕でさっと拭って、抱えたそれらを丁寧に並べていった。
「それは」
「これは君にあげたカモメの、兄弟達さ」
並べられたガラス細工達は、炉が放つ橙の輝きに照らされている。周囲が暗いせいか濃淡がはっきり出すぎていて、細部まではわからない。
「あれが完成するまでに、ずいぶんと時間をかけたもんだった。何分そんな細かい事に挑戦した事が無かったからね。不細工だろう?」
一番近くにあった一体に手を伸ばす。並べられた兄弟達に比べて大柄なこいつは、首から上がぶくりと太って、そのせいか表情も曇って見える。目も薄く垂れており、まるでいじけて膨れた子供のようだった。
「愛嬌のある顔ですね」
彼は少し咳混むようにして苦笑いをする。
「作っていて最初の課題がそれだった」
「それって?」
「流石にカモメの顔なんて、近くで見たことは無かったよ」
僕もつられて笑った。確かに、カモメってどんな顔をしてるんだろう。
「人間の観察力なんてのは結構いい加減でね、生き物のなんとなくのシルエットは描くことが出来ても、顔の造りや角の一とかは、ほとんど覚えていないと言ってもいい。試しに象の顔を書けと言われても、多くは無茶苦茶な事を書くだろう」
確かにハッとさせられる。実際僕は象の顔を思い浮かべる事が出来なかった。
「あんなに見慣れているのに」
「全くその通りさ」
僕たちはクスクスと笑った。最後に笑ったのはいつだったか、思い出せない。けれど今は、こんな些細な事が面白くて。それは懐かしい疲労感でもあった。
彼は一呼吸おいて、作業台に手をのばして、
「それでもね」
整列する兄弟の中から、一番華奢なやつを炉に向けて透かしている。
「大切なものだけは、しっかり覚えているのだよ。怖いくらいに鮮明に」
彼が発したその言葉は、一段と深く痛覚に響いた。僕の心の中で、何かが軋む音がした。
「それは、網膜に焼き付いて、消え去る事はない」
その眼が見ていたものは、カモメでもなく、その先の炉でもない。その橙の明かりに照らされた、ガラスの向こうの、真実の世界。彼はきっと、それを望もうとしていたのだろう。
「あの、聞いてもいいですか」
「なんだね」
「空が青くなくなったのも、その頃からなんですか」
ずっと気になっていた事だった。
空はいつか青く見えなくなったと言っていた。そして、造れなくなったとも言っていた。
それはすべて、答えを待ち始めた、三年前からのことなのではないか。
もしそうだとしたら、それは決して、幸福な事ではないのではないか。
「厳密には、青く見えなくなったと言うより、何色なのか、わからなくなってしまったと言うべきかな」
彼はゆっくりと瞳を閉じて、少しの間をもって、そう答えた。
「そうなってしまったのは、三年前だ。造れなくなってしまったのも、答えを探し始めたのも、その頃だ」
そう言って、目を薄く開いて、カモメを作業台へと戻す。
「何か、あったんですか」
踏み込んではいけない事だったのかも知れない。でも僕は聞かずにはいられなかった。こんなに素晴らしいガラス細工を作れる人が、なぜそうなってしまったのか。なぜ三年間も苦しめられているのだろう。
彼は沈黙ののち、作業台の隅に置かれた煙管を手に取り、マッチで火を灯もす。白煙の溜息が天窓を濁らせた頃、ようやく、その口を開いた。
「孫娘がいる、という話はしたね」
「うん」
「明るい子でね。幼少からピアノを習っていて、とても才能豊かな子だった。周囲から期待もされていたよ。ガラスにも興味があって、その方面でも素晴らしい感性を持っていたよ。私は、彼女とそうしてガラス細工で過ごす一日がとても好きで、幸福だった。そんな彼女がいなくなってしまったのは、、三年前。中学に入学してすぐの頃だった」
「いなくなった?」
「その日私は取引先へ出向いていてね。その子が工房に居るとは知らなかった。だから、あの程度の地震なんて気にも止めなかった」
老人は淡々と続ける。
「私が工房に戻ると、辺りは騒がしくなっていてね。ちょうど救急車が来ていて、何事なんだと思ったが、担架で運ばれていく血だらけの彼女を見て、愕然としたよ。それから、彼女は戻ってこない」
「・・・。」
「工房に入ってすぐに分かった。棚が倒れて、ガラスの花瓶達が全部割れていてね。彼女はその下敷きになった」
長い沈黙だった。天窓を打ち付ける雨の雑踏だけが鳴り響いている。あたりを見回すと、ガラスの作品達が、淡い橙に照らされて、不気味な存在感を放っている。
「私の作り上げてきた作品達が、彼女の為にと作ってきたものも、凶器となってしまった」
沈黙を打ち破る言葉は、無念の情に染まっていた。煙管の白煙と共に吐き出されても、その色は失われる事なく、僕に届いた。
「それ以来私は、造れなくなった」
僕は何も言えなかった。
僕には生涯をかけて打ち込みたいものなど無かった。だがもし、僕がそれを持っていて、それに誇りと情熱を持っていて。信念を持って作り出したものが、自分の最愛の存在を傷つけたなら。
心臓が軋む音が、体内で反響する。
「私が信じていたものは一体なんだったのか、わからなくなってしまった。その頃から、私の心は、ずっと彷徨い続けている」
そういって、彼ははにかんだ。その笑顔は僕に向けられていて、やさしい表情だったけれど、幸福そうには見えなかった。目元に集まった皺は、彼の心の傷を浮き彫りにしているようにさえ感じて、切なかった。
「それは」
事故じゃないですか。
言えなかった。そんな言葉は慰めにもならない事を僕は知っていた。代りに深く吐き出した吐息が言葉を埋めた。
「すみません。無神経でした」
他人には踏み込んでほしくない、そういう部分がある。それを何より理解しているのは自分だったはずなのに。全くもって愚かだった。
「気に病む事はない。それで何かが変わるということもない」
排他的だった。けれどもその語意は毅然としている。三年という月日から学んだ無慈悲な答えだった。
僕に出来る事はなんだろう。
こうして彼の話を訊くことしか出来ないのだろうか。
あの日の僕のように、世界が過ぎて行くのをただ眺めている他ないのだろうか。
「作れるでしょうか」
長い沈黙は時間という感覚を失わせる。どれ程こうして足元を眺めていたかは分らない。そうしてやっと導き出した、僕の答えだった。
「僕にも、カモメ、作れるでしょうか」
僕の声は震えていた。肩がこわばっているのが分かる。膝の上で強く握り返した拳が軋んでいる。
老人の為だけじゃない。僕自身の為に何かをしたかった。
大切なものを失ったあの日から、僕は何一つ変わってなかった。
傷付くのが怖いから、すべてを膜の向こうに追いやってきた。自分の意思で、世界から距離を置いた。
そんな僕に、世界が何かしてくれる訳がなかった。
「僕も作ってみたいんです」
彼もまた、そうして時が止まってしまった、一人の被害者だった。同じ境遇に置かれた彼の心情は他人事には思えなかった。
答えなんてものはわからない。それを知るには、僕は幼すぎる。
けれど、もう何もしないのは嫌だった。
もう一度、その向こう側へ、手を伸ばしてみたかった。
そんな僕を彼は、鬚を指先で撫でながらずっと見つめていった。瞳の中には炉から放たれた橙色の光彩が浮かび上がっている。
「今日はもう帰りなさい」
深いため息の後のその声にはっとする。
僕はそれを拒絶だと思った。 愛する者を失ってしまった。その元凶でもあるガラス細工だった。断る理由はもはや説明がいらなかったはずなのに。
「あの、でも!」
「明日までに準備をしておこう」
「!」
老人の笑顔がそこにはあった。目もとに皺を増やして、僅かに持ち上がった口元が、やさしかった。
「作業をするには、少し散らかっているからね。今夜いっぱいまで掛りそうだ」
「でも、いいんですか?」
自分から志願しておいて、その返答はあんまりだった。
彼といると、大人らしい言葉使いで武装した自分が、丸裸にされてしまったような気分になった。
初めて出会った時から、その感覚は徐々に強くなっている。彼に親近感を感じてしまうのは、そのせいなのかも知れない。
「ちょうどこの騒々しさが鬱陶しく感じていた所だ、いい機会だよ」
「ありがとう、ございます」
老人は煙管を咥えて天窓を見上げて、吐き出した白煙で輪っかを作る。
「今ならちょうどいいタイミングだ」
気が付けば、工房は鈍い光のカーテンに穿たれていた。
「あの、ずっと聞けずにいた事があるんですが」
危うく失念しそうになっていた決意。今がまさにそのタイミングだと思った。彼は相槌は打たずに、珈琲を啜っている。
「お名前、教えてください」
彼は眼を丸くしてこちらを見て、にっこりと笑った。
「そういえば、名乗っていなかったんだね」
「ええ、聞きそびれてました」
彼はカップを作業台において、僕に手を差し出しながら。
「羽立雄志郎。改めてよろしく。苧ヶ瀬修一君」
潮と雨の湿気が肺に心地良かった。雨はなんとか上がって、雲の隙間から差し込む光が眩しかっい。防波堤越しに感じる水平線の気配は、悲しみから解放されて、慈愛の色に満たされている。
そういえば置きっぱなしにしてしまった自転車はどうなっているだろう。急いでいたとは言え、この大雨の中、蹴り倒してきてしまった事に若干の罪悪感を感じる。三年間に渡って通学を支えてくれた戦友だが、その扱いは尊大極まりない。
置き去りにされたそいつは、変わらずその場所にうなだれていた。泥酔した父親を抱き起こすように、戦友を立ち上がらせる。
長年に渡って蓄積された砂埃は、雨のお陰で少し洗い落とされているようで、水滴に陽光が差し込めばキラキラと輝いて見える。サドルも十分に水を吸って、確実にお尻まで浸透してきそうだ。
明日またここへ来る。その時も、こいつの頑張りが必要だ。
帰ったら、手入れくらいはしてやろう。
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