ムナゲのつぶやきへようこそ!

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2チャンネルの「ムナゲ」が、趣味の為に小説を書き、それをまとめたブログページです。

2010年3月12日金曜日

空色イヤホン 第六章「麻子」

   呼び止めようとしたけれど、やっぱりやめる事にした。前へ伸びた腕をそのまま返して。
彼の背中を見送る。走り出した彼にはもう見えてはいないだろう。

 「あら、もう帰っちゃったの?」
 リビングに戻った私に、母が残念そうに声をかける。
「晩御飯、一緒に食べてもらいたかったのに、残念だわ」
 そういって、今しがた並べた食器をしぶしぶ棚に戻している。
「お父さんが帰ってきてるんだって、それで」
「そうなの?それじゃあ呼び止めたら悪いわね」
 母は隼人を好意的に見てくれている。私が引っ越してきてすぐ、友達もまだろくにいない時から面倒を見てくれていたのが大きい。
 それくらいの歳の男の子、つまり中学に入学したばかりの年頃は色々と複雑で、異性に対してひどく当たったりして、傷つけられたり泣かされたり。 そういう話を良く聞いたし、実際に良く見てもいたけれど、隼人に限ってはそんな事は無かった。私が彼に対して好意的だという点を差し引いても、彼はとても紳士だった。
「ねぇお母さん」
 片付けを終えて対面する母は、隼人との夕食を逃してとても残念そうだ。自分の想い人でもないのに、なんだかおかしい。
「男の人って、難しいね」
 私のつぶやきは、母にしてみれば、すっとんきょうな質問に感じられたと思う。飲もうと持ち上げたお吸い物をテーブルに戻して、その瞳で私の真意を伺っている。
「なあに、隼人君と喧嘩でもした?」
「そんなんじゃないけど」
 母はなぜかとても愉快そうだ。私の疑問のどこにそんな要素があったのだろうか。
「有美も年頃の女の子って事かしらねぇ」
「ひょっとしてからかってる?」
「そんな事ないわよ。娘の乙女心に感動しているのよ」
「やっぱりそうなんじゃん」
 一人達観している母を前にして、なんとも言えない居づらさを感じる。
「男なんて、なんにも考えてないのよ。そして女もそう。だから考えるだけ無駄なの。所詮男と女よ、お互いが気に入られたいと思ってるだけ。だとしたら、多くの事に説明がついてしまうわ」
 母は徹底して大らかな人柄だったけれど、鋭くドライな事を言ってのける人だった。
「例えば?」
「そうねぇ、例えばあなたが思ってる疑問も。隼人君を理解したいと思うのは、彼に気に入られたいからよ。ただ側にいるだけなら理解なんて必要ないもの。それ以上を目指すからこその疑問ね。違う?」
 母はそういって、得意げにお吸い物をすする。
 隼人の事だなんて一言も言っていないのに。なんて言い逃れはするだけ無駄だった。
「適わないな、お母さんには」
「年の功よ。いたわって頂戴」
 無口で不器用な父の顔が浮かんだ。きっと父は尻に敷かれていたのだろう。



 特別な名前で呼べば、特別な関係になれる。
 占い好きの麻子が私に強要したお呪いの中で、私が採用した数少ないジンクスだった。
 理由は分かり易くて使い易そうだったから。
 面倒くさくなくて、すぐにでも実践できる、簡単なもの。
 最初はそう思っていた。

 ハダテという苗字の響きは、呼びにくかった。
 同じ「は」行からの発音でも、ハダテとハヤトでは滑らかさが違う。でこぼこな感じのハダテより、流れるようなハヤトの方が綺麗で、言い易かった。
 そんな言葉遊び的な芸術感を感じていたのかは分からないけれど、彼の周囲の人間はそう呼んでいた。
 高校に入って最初に名前を呼び捨てにしたのは私だったけれど、今となっては関係が無かった。多勢が呼べばそれは普通になってしまって、最早それに特別な意味なんてなくなってしまった。本当は中学時代からそうしていたのに、一番長くそうしていたのに、それを主張する事はとても虚しい事に思えた。
 そんな私の想いに、最初に気がついたのが、麻子だった。

 「王子様が紳士的すぎるってのも、困ったもんだね」
 学食で買って来たやきそばパンをかじりながら、私の横に腰かけて、さっと足を組む。ばっちりメークに茶髪のポニーテールがトレードマークの彼女は、今日もブラウスのボタンをひとつ余計にあけて、スカートをぎりぎりまで短くしている。セーターの合間から覗く豊満な谷間は素敵だけど、この秋空の下、寒くないのかと思う。きっと階段下の男子にはパンツが見えていると思う。
「紳士的っていうか、女に興味がないっつーか」
 やきそばパンを口に押し込んで、紙パックの珈琲牛乳をちゅるると吸う。
 麻子はいつもこんな調子で、決してお嬢様ではないけれど、それでも粗雑な素行の中に光る、品のようなものはあった。物怖じしないさばさばとした性格で、私には無いものをいっぱい持っていて、かっこよかった。
「自分からアクションを起こせない時は、相手にアクションを起こさせる。っても、彼の場合はそれも無理そうだしねぇ」
 きっとそれも何かの雑誌の受け売りなのであろう。そんなことを呟いて、秋空を仰いでいる。
「ダーリンが男に夢中だなんて大変だわ」
「変なこと言わないでよもう」
 私は膝に広げた弁当箱を半ば八つ当たりするようにして仕舞い込んだ。
「ああごめん。でもほら、苧ケ瀬、だっけ?彼も地味じゃん」
「・・・」
「どこがいいのかね」
「私が聞きたいくらいだよ」
 私から見ても、苧ケ瀬君は地味だと思う。よく見るとそれなりに奇麗な顔をしているけど、垢抜けて無いせいか、彼の養子を褒めたたえる声は聞かなかった。やっぱり影が薄くて、でもそれが、彼の存在感として成り立っているような。
 でも、隼人や私みたいに彼を気にし出すと、彼はとても不思議な存在なのだとも思えてくる。
彼を知ろうとすればするほど、彼のイメージは不鮮明になっていく。
「そーいやーさ、例のあいつ、振られたらしいよ」
「あいつって、灰谷君?」
「そ。一昨日だって」
 灰谷君。私にとってはあまり良い思い出は無い。嫌い、って言うほどでもないけど、今の私には関係の無い人。
「まぁあんな最低なやつはさっさと振られちまえばいいんだけどさ」
そういってまたストローに吸いつく。
 灰谷君に告白されたのが高校一年の、ちょうど今頃。違うクラスで、ほとんど授業で一緒になることはなかった彼が告白して来た時は、私は驚いた。それほど、私は彼に対して無知だった。
 勢いのある告白だったと思う。驚きの中でも、彼の意思は明確に私に届いていたから、きっとわかりやすい言葉を使っていたのだろう。その表情には鬼気迫るものがあって、圧倒された。
 しかし男女交際をしたことの無い私には、それに答える事が出来なかった。好きとか嫌い以前に、彼の事を知らなかったのだから。経験の無い私にとって、お互いを知るために試しに付き合ってみるとか、そういう柔軟な対応は出来そうになかった。
 だから私は、その告白を断るつもりでいた。だからもちろん、断ったつもりでいた。
 しかし翌日には、どういう訳か私と灰谷君は交際しているという事になっていて、その噂の発生源は彼にあった。彼はとても浮かれていて、誰がどう見ても、幸せの絶頂だった。
 どうやら私の断り方に問題があったらしい。私もその時何を言ったか、具体的に思い出せと言われても、今となっては難しいけれど。おそらく、友達からなら、とか、そんな有り触れた事を言ったのだと思う。私の当時の見識では、友達と恋人でははっきりとした線引きがされているはずだったので、それが交際に結びつくとは思いもしなかった。
「ばかじゃないの」
 事の真相を聞かれて、最初に薄情した相手が麻子だった。私のあいまいな返事がいけないのだと、麻子に諭されたのを覚えている。本当は慰めるなりしてほしかったという私の甘えは、簡単に見透かされた格好だった。
 それからしばらく、何度か彼の誤解を解こうとはした。しかし彼はなかなかに強引な人で、私がまごまごしていると手を引いて連れて行ってしまう。帰りのホームルームが終わって帰り支度をしているみんなの前で、いきなりそんな事をされてしまったら、もう私にはどうする事も出来なかった。その場で突き放せば彼の面子に泥を塗ってしまうだろうし、何より深く傷つけてしまう。事の発端が誤解にあるなら、その責任の半分は私にあった。そう考えると、彼に冷たくする事は出来なかった。
 そして一か月が経ったある日。
 すごい形相で教室に駆け込んできた彼は、私の手を引いて屋上まで走った。そして私に、噂は本当か、と、訪ねてきた。
 何の事かさっぱり分からずにいる私に、今まで見たことのない程怒りに満ちた視線を突き刺して、彼は怒鳴ったのだった。
 とぼけるな。あの羽立とかいう男の家から出て来るのを見た、と噂になってるぞ。
 その時、私は全てを理解した。
 私はこの一ヶ月間が、どこか私のものでないような気がしていてた。確実に当事者は私なのに、その魂はどこか別のところにいて、ただ、その風景が彩られるのを眺めているだけだったような。そんな気さえしていた。
 けどそれは錯覚だった。
 その錯覚は、逃げ、だったのだ。
 その現実が気に入らなかったから、私は逃げていただけだった。
 私はこの人を傷つけたのだろう。そして、隼人も傷つけたのだと。
 私は何もしないことで、周囲を振り回していたのだと。
 結局私は甘えん坊だった。誰かに愛されたいから、いい顔をしていたかった。だから、断る事が出来なかった。それを、相手を傷つけたくないから、などという理由に置換して、言い訳にしていた。
そしてそれは、私が隼人を好きだという気持ちの、その自覚の無さを嫌ようにも浮き彫りにした。
 自分の気持ちに自信がなかった。だから気付かない振りをしていたのだ。そしてその事すらも、忘れていた。
 だから、粛々を受け入れよう。これは私への罰なんだ。
 私は、彼の問に頷いた。

 彼はどこかで否定してほしかったのだと思う。
 けれど私はそうしなかった。
 夜会っていた、というのが何時のことかは分らない。けれど、家は近所で学校からも比較的近かったから、そんな私達が一緒にいる所を誰かに見られても、おかしくはなかった。
 灰谷君と交際しているつもりは無かった私は、その事実が問題になるとは考えもしなかった。家族ぐるみでのお付き合いがすっかり習慣化してしまっていたから、夕食にお邪魔する事だってしょっちゅうだったし、彼がお気に入りのアーティストのCDを届けてくれる事もあった。
 灰谷君は私を責めるよりまず、彼を責めた。
 だから私はそれを否定した。違うんです、悪いのは私なんです。
 彼は涙を流しながら私を責めた。他に好きな人が出来たならなぜ直ぐに言わなかったんだ、と。
私はごめん、としか言えなかった。
 初めから隼人が好きだった。君とは付き合っているつもりじゃなかった。
 今更、そんな事を言えなかった。
 だから私は、彼の言葉を黙って聞く事しか出来なかった。
「まだ彼には言ってないの?」
 俯く私に、麻子は鋭い視線を向けている。まるで断罪人のそれだと思った。
「あんたってほんとバカ」
 呆れられてもしょうがなかった。
 私はこの事を隼人に言わなかった。言えなかった。
「彼の誤解が解ければ、もっと積極的になってくれるかもしれないし、次のステップに進むチャンスじゃん」
 それは最もだった。
 灰谷君と私が別れたという噂は、翌日にはみんなに知れ渡っていた。その理由は、私が彼との約束を破ったから、という事になっていた。それに憤怒した彼が、私を見捨てた格好だ。
「あんたが浮気したから、とか言わなかったのも、まぁ面子ってもあるだろうけど、灰谷なりの優しさだったって部分もあるんじゃない?そこで変な事言いふらされたら、あんたの気持ち、最低なシチュエーションで隼人君に入ってたんだよ?」
「うん・・・」
「だからって奴が最低な事には変わりないけど。それに隼人君だって、あんたが自分から言ってこないから、気を使って聞いてこないんじゃないの?親しいと思っていた人に露骨に隠し事されたら、そりゃ距離感感じちゃうよねー」
 珈琲を飲みほして、絞り上げるように握り潰してゴミ箱に投げ入れるその動作は、私に対しての呆れを主張しているようだった。
「ごめん、わかってるんだけどさ」
「まぁ気持はわかるよ。実際は言いづらいんだろうし」
 麻子はそういって、スカートのポケットからピンク色に派手にデコレートされた携帯を取り出して、操作し始める。
「そんなあんたに、朗報が」
 私の目の前に突き出した液晶には、麻子が崇拝する恋愛占い師のウェブページが映し出されている。
「これ、あんたの設定でやったから」
 よく見ると占った日付は、確かに私の誕生日になっていた。
「思い続けた相手と大接近。特別な名前で呼べば、特別な関係になれる」
 麻子が音読する。私のやる気のない頭はとうに読むことをやめていた。
「特別な名前って、何?」
「さぁ。あだ名とかじゃないの?」
「あだ名?」
 隼人のあだ名。そういえば、彼があだ名で呼ばれているのを聞いたことがない。たいていの人間は隼人と呼び捨てていたし、苗字で呼ぶ人間は移動教室の先生かクラス委員くらいだった。
「隼人のあだ名、なんか知ってる?」
「え?んー、そういえば聞いたことないかも」
「だよね」
「あんたが作っちゃえばいいじゃん」
「え。私そういうの才能ないんだけど」
「まぁ、考える時間ならいくらでもあるんだし」
「そうだけど・・・」
 弱ったな、と思った。私にはその手のセンスが本当に無い。まず他人を本名以外で呼ぼうとしたことがあまり無かったし、思いついた事もなかった。私が相手を呼ぶ時は多勢の呼び方で、つまり、名前が定着していればそう呼ぶし、あだ名が定着していれば私もそう呼んだ。あだ名で呼ぶ事はあっても、すでに誰かが作ったものにあとから乗っかるのが精いっぱいで。慣れない呼び方で無理して呼ぶことも、なんか照れくさかった。
「あ、次体育なんだった」
 麻子は時計塔の分針が震えたのを見て、思いついたかのように立ち上がる。麻子はクラスが離れているから、移動教室先でも一緒になることはほとんど無かった。けれどもこうして、一緒に御飯を食べたり買い物に出かけたりしてくれる。親友だった。
「ねぇ、隼人って名前、あだ名に崩すの難しくない?」
 立ち上がってスカートについた砂埃をぱたぱたと叩く麻子を見上げて、私はすがる様に言った。 
 そんな私を見て、愛らしい駄目な子供を見るような目で、彼女は優しく答える。
「別に名前である必要はないんじゃない?」
「え」
「ほら、だって、彼の場合は苗字のほうが珍しいんだし」
「あ、そっか」
 携帯を勢いよく閉じて、スカートにしまい込む。引き締まったお尻と太ももが綺麗だった。彼女はパンツが見えてしまうような事があっても、不思議と野暮ったく見える事は無かった。スポーツ少女という訳でもないのに、そのメリハリのある体が羨ましい。
「あ、忘れてた。もうひとつ」
 彼女はそう言って鞄を肩に担いで、私の頭に手の平をおいて、前髪をくしゃっとする。
「苧ケ瀬脩一、実家発見したり。ついでに住所ゲット」
 彼女の左手でピースマークが作られるのとほぼ同時に、チャイムが鳴った。彼女は「やべ」と言って鞄を担ぎ直して駈け出した。
「あとでメール入れとく!」
 振り向いて、手を振る。私も負けじと振り返す。 
 ありがとう。
 言い損ねてしまったけれど、大きな声で叫ぶのもかっこ悪いから、言わなかった。

 六限が始まって少しして、麻子からメールが入った。
 メールには、彼の住所とそれを知り得た経緯が、簡潔に示されていた。
「これ住所。実家の近くでうろつく彼を発見、追跡したら家発見」
 実に麻子らしいメールだった。いまどきの女の子なのに、ちっとも文章を飾りたてたりしない。たいていはカラフルに彩られた絵文字で眩しい携帯画面も、麻子との時だけは目が疲れなかった。
 私は中庭で言いそびれたことを、やはり簡潔に書いて、返信した。
「住所貰ったよ。ありがとう」
 六限の授業は数学で、決して得意な内容ではなかった。本来ならしっかりと黒板の内容を噛み砕いて板書しなければならないのだけれど、気のりしなかった私は、板書する代りに、彼の名前を書き連ねていた。 
 羽立という字は、書くと難しい。字が比較的奇麗な私でも、バランスが取りにくかった。特に横書きの時。直覚的なデザインは文字の大小でさえも気を遣う。
 特別な名前。特別な名前で呼べば、特別な関係になれる。
 羽立という響きから言って、ありがちなあだ名を流用するのは無理に思われた。
 ペンを指先で回して窓の外を眺めて、もう十分くらい経つ。
 だめだ。やっぱり私にはそういう才能は無いんだ。考えても考えても、あだ名のあの時も浮かんで来なかった。
 溜息交じりに携帯に手をのばして、親友に助け船を求める。
「ダテチンでいいんじゃなね?なんか可愛らしくて」
 授業終了のチャイムと同時に光った携帯には、そう書かれていた。

 苧ケ瀬君の住所を送信したら、途端に彼から返信があった。
「ありがとう!明日さっそく行ってみる!」
 相も変わらず飾り気のない質素なメールに、行ってどうするの、と、意地悪を投げかけてやろうかとも思ったけれど、やめにした。
 自室の窓際のカーテンを開け放って、夜空を眺めた。連日の晴天で空気は澄み切っており、満天の星空。その輝きに似つかずの、鏡越しの自分の顔にため息を漏らす。
「情けない顔」
 傷心の表情だった。眉毛が下がって、それをごまかそうとにやついた口元が憎らしい。
 昨日のあだ名で呼ぼう作戦は失敗だった。即座に別の響きが出たから凌げたものの、予想外のクロスカウンターだった。
「下品って」
 ダテチンが下品と思われるとは想定外だった。きっとダテチンの、チンの辺りでそう思ったのだろう。男の子らしい発想だとは思うけど。麻子が可愛いなんてて言うから、そんな事思いつきもしなかったじゃないか。
「作戦失敗。ダテチンは下品だって」
 麻子に報告メールを入れて、また星空を眺めた。海沿いの夜空は、青く光り輝いている。
「実は私も思ってた」
 バイブレーションで唸る携帯を見開いて、親友のお茶目な一面に苦笑いして、布団に潜り込んだ。


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