ムナゲのつぶやきへようこそ!

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2チャンネルの「ムナゲ」が、趣味の為に小説を書き、それをまとめたブログページです。

2010年3月29日月曜日

空色イヤホン 八章「転機」

 「ついてねぇ」
 久しぶりの雨天に愚痴を零すと、目前の雨戸が白く濁った。
 今日は苧ヶ瀬修一の周辺捜査をするつもりだった。直接話しかける事が出来ないからまで押し掛けるなんて、まるでストーカーみたいだ。昨晩そんな事を思い立って胸糞が悪くなり、眠りにつくまでは行動に起こすのを辞めようと思っていたが、こうして雨天となると、まるで第三者によって意図的に阻まれたようで、なんだか悔しい感じがする。
 基本的にこの地方の雨はストロングだ。雨量自体が大した事は無くても、吹き荒れる風が凄い。沿岸から勢いを増して上昇してくる潮風の影響で、たいていは嵐の形相になる。こういう状況で傘は殆ど役に立たず、むしろ足手まといになる場合がほとんどだ。なぜならすぐに壊れるからだ。
 だから雨天時はみんな家に籠る。どうしても外出したい場合には、全身ずぶ濡れになる覚悟で雨合羽を着用する。地方から通学してくる生徒は、地元人の雨合羽姿を最初は指を指して笑うのだが、三か月もすれば誰もが黙って蛍光色に身を包む事になる。急な雨天に備える為に、いわいる置き傘に代わって「置き雨合羽」するのが、ここ青海学園のセオリーだ。
 まぁそれでも、今日の雨はまだ良い方だろう。雨量もまだまだ小雨と言えそうだし、この程度の風なら傘がタコのように捲れあがる事もないだろう。
 「行くか」
 このまま何もしないのは悔しい。もちろんそれは半分以上あてつけでもある。有美の手も借りてしまった以上、引っ込みが効かないというのが本音だ。明日はクリスマスだし、それまでに片づける約束だ。
 レインコートを着用して、ブーツの紐をきつく縛った。
 ふと、過去の記憶がフィードバックする。
 そういえば空音が飛び出していったのもこんな日だった。雨天の中薄手で飛び出した彼女が心配になり、このレインコートを着て探しに出かけた事を思い出す。冬の雨は体温を容易に奪っていく。小柄な彼女はあっという間に冷たくなって、風邪をひいてしまうだろう。
 気がつくと、携帯がバイブレーションしている。小刻みな三・三・七拍子はメールの合図だ。差出人は有美。「雨だけど行くの?」。その心配の仕方が彼女らしい。
 俺はその問いに対して、「装備は万端。風呂は沸かし済み」と、抜かりないの事を明確に示した。雨に濡れてもすぐに温かいお風呂につかれば大丈夫だ。俺の体はそんなに柔ではない。
 その直後の有美からの返信には、「そうじゃなくて・・・↓気をつけてね」とあった。下向き矢印の絵文字が不満の色を示しているが、その真意は全くわからなかった。
 商店街を抜けて、駅前通りに出る。寂れた商店街では人とすれ違う事も無かったが、駅前までくればさすがにそんな事はない。ホームタウンゆえ、駅を利用する人はそれなりに多く、バスやタクシーに人が集まっている。潔く濡れながら走り出す人も見受けられるが、きっと家が近いのだろう。
 三丁目は、この駅をまっすぐに出てしばらく行ったところにある。三丁目自体は古くから存在するのだが、人口増加に伴って駅美化施工がされたため、綺麗な街並みだ。その折に、古くから住む人は七丁目あたりに移動しているから、三丁目に住んでいるとすれば転勤族だろう。かく言う俺達一家もその口で、俺が小学校六年生になった時に新築したのだった。
 コンビニで雨宿りをしながら、携帯の液晶を見る。有美の情報が正しければ、もう少し行った所のはずだ。沿岸ホームタウンの目玉のマンションはすでに通り過ぎてしまっているから、一軒家のはずだ。
 携帯を雨に濡らさないようにコートのポケットにしまう。畳んだ傘を開いて歩き出そうとした時、突然背中を叩かれた。
「隼人クン?」
 何事かと思って振りかえると、そこにはジャンパー姿の西倉麻子が立っていた。
「西倉、か」
「お、やっぱり隼人クンだ」
 麻子はにやついた後、ウィンクする。ニットにジャンパー、ショートパンツにゴム長靴というあくの強い組み合わせだが、なぜかあまり違和感がない。生足が冷気に晒されていて、正直見ているこっちが寒くなる。ビニール袋を持っているところをみると、買い物帰りのようだ。
「何してんだ、こんな処で」
 彼女はビニール袋を持ち上げる。その動作は見ればわかるだろうと言っているようだ。
「買い物。ナプキン切らしちゃってさ、薬局遠いしコンビニでいいやって感じで」
「そういう報告はいらねぇよ。てかだからそんな格好なのか」
「そうそう、家近いからね。んで、なんか見たことあるなぁって後ろ姿を発見してさ。なかなかこっち向かないから」
 西倉麻子は淡々と答える。
「そうか。てか確認しないで肩たたいたのかよ。もし違ったらどうすんの」
「そんときゃごめんなさいって言う」
 西倉は一年の時からの有美の親友だ。有美とは違ったベクトルで目立つ容姿をしていて、正直好みじゃあ無かった。だが彼女のその容姿が男に受けるのも頷ける、派手な感じの美人だ。ギャルと言ってしまえば話が早い。俺自身は直接話す事は多くはないが、有美から聞く限りでは中々話の分かる奴で、良い女そうだった。
「お前、度胸あるよな」
「そう?普通じゃん」
 そう言って彼女はビニール袋からアイスバーを取り出して、紙パッケージを雑に握りつぶしてゴミ箱に押し込む。一口目を食べる彼女を寒くないのかと思い見ていると、「いる?」と差し出して来たので、「いい」と遠慮した。
「苧ヶ瀬宅にはもう行った?」
 西倉からの振りに一瞬ドキっとする。よくよく考えれば、苧ヶ瀬の住所を教えてくれたのが西倉なので、それを知っていてもなんらおかしくはないのだが。やましい事をしている訳でもないのに、俺の良心は軋んで臆病になっているようだ。犯罪者の逃亡時の心境はきっとこんな感じだ。
「まだ、これから行こうと思っていたところ」
「案内しよっか」
「いいのか?」
「うち、近いし。ついでついで」
「そうか、悪いな」
 家が近いという事は聞いていたし、特にその好意を無下にする理由も無かったので、甘える事にした。そういうと彼女は傘立てから真っ赤な傘を引き抜いて、天空へ勢いよく広げた。俺はひと際目立つその赤を見つめながら、ビニール傘をゆっくりと広げた。
「しかし、雨なのに良くやるねー」
 アイスバーを胃袋にしまいこんだ彼女は、傘の柄にぶら下げていたビニール袋を手に持ち直して、そのままポケットに突っこんだ。
「まぁ、特にやることもねぇしな」
「バンド練習とかは?」
「ない。メンバーは忙しいらしくてよ」
「へー、バイト?」
「違う、これ」
 傘を持っている手の小指を立てると、西倉は「あー」と納得したようだった。
「クリスマス近いしね」
 大通りを逸れて、住宅街に入っていく。ここいらは集合住宅が多く、斜めに連なる洋風の屋根が瀟洒な雰囲気を出すのに一役買っている。西倉がここら辺に住んでいるという事は、彼女もやはり転勤族なのだろうか。
「隼人クンってさ、A型でしょ」
「そうだけど、なんで?」
「やっぱり?見るからにA型って感じするから」
「そうか?そういう西倉は?」
「あたしAB。超気分屋」
 血液型で性格がどうのこうのという話のようだが、全く興味の無い俺には、的を得ているのかどうかも分からない。とりあえずAB型は超気分屋という特性を持ち合わせているのが、その筋の話題では常識なのだという事は何となく読み取れはした。
「有美はやっぱりOって感じ」
「それってどんな感じ?」
「大雑把でマイペース。あと愛想がよくて、何考えてるか分かんないとか」
「ああ」
 なるほどな、と思った。最初の二つについては誰でも持ち合わせている部分ではないかと思うが、後者については通じる部分がある。
「ちなみに萩原って」
「あいつ超ドB」
「なるほどね」
 どれくらい前だったか、萩原と西倉は付き合っていた。女泣かせで有名な萩原にしては長く付き合っているとは思っていた。有美からも話は聞いていたが、なるほど、こういう女だったのか。こんな調子なら、逆に泣かされていたのかも知れない。
「ついた、あそこ」
 彼女が指差したのは集合住宅の一角だった。T字路に面した角にあって、美化施工の後に引っ越してきた事は確実に思えた。西倉の傘に負けず劣らずの赤い屋根は、素人にも分かる「オシャレ感」を醸し出している。
「ちなみにあたしん家はあっち」
 彼女はT字路の奥を指差した。美化施工によって建設された集合住宅はこの角が最後のようで、その向こう側には古そうな、オシャレでもなんでもない一般的な日本家屋が並んでいる。彼女の指はその突き当りに位置する一軒家に向けられている。
「本当に近いな」
「でしょ?びっくりだよね」
「これだけ近かったら見かけてそうだけど」
「それが無いんだよね。あたしバト部だし、遅刻常習犯だし」
「・・・そうか」
 苧ヶ瀬は遅刻はしないようだったし、帰宅部だったから西倉とリズムがずれていてもなんらおかしくは無かった。それに西倉のような女だったら、苧ヶ瀬のような地味な男を見かけた所でわざわざ覚えていないだろう。同じ高校の制服だとは思いこそすれ、彼に注意を払う理由は西倉には無い。
「んで、これからどうするの?カーテンしまってるし、見るからに留守だけど」
 苧ヶ瀬の名札が掛った家は、すべての窓でカーテンが閉められ、人影を感じない。部屋に電気がついていれば、薄暗い今日ならすぐに分かるはずだ。
 しかし俺は何をしに来たんだろう。今さらながら、自分の行動が理解出来なかった。チャイムを押して確認する事も出来たが、日常生活で声もかけられない相手なのだ、わざわざ家に押しかけたところで出来ることは無い。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど、なんで苧ヶ瀬クン追ってんの?」
 玄関を見つめて硬直する俺を覗き込むようにして話しかける西倉。
「あいつになんかあんの?」
 それは俺が知りたい事だった。
「わからないけど、なんか気になるんだよ」
「気になるって?」
「気づいたら、俺はあいつを目で追ってるんだよ。どんな奴かも知らないし、もちろん男色なんてこれっぽっちもないよ。けどやっぱり気がつくと、俺の目はあいつの背中に突き刺さってるんだ」
「背中、ね」
「俺もどうしてかはわかんねぇよ、けど、気持ち悪いじゃんか、そんなの。きっと、理由があるはずなんだ。けど、その理由がわからない」
 それは無意識的だった。気がつくと、その背中を見つめている自分がいる。それはちょっとした恐怖だ。相手が女なら、恋心だなんだの適当な理由をつける事も出来るが、相手が男となるとそうはいかない。それだけに余計に不安は募る一方だった。
「それで、会ったら何か分かると思ったんだ」
 俺は無言で頷いた。そんな理由でわざわざこんな所まで歩いて来たが、結局収穫は無かった。
「あんた臆病だね」
「え?」
「隼人クン、臆病な人なんだよ。話しかければ済む問題なら、学校でそうすれば良かったんじゃん。でもそうしないのは、臆病だからでしょ」
 驚きのあまり目が点になる俺を気にも留めず、彼女は淡々と続ける。
「その理由を知るのが怖いとか。学校で浮いた存在の苧ヶ瀬クンに話しかけれてるのを見られるのが怖いとか。いずれにせよ、今の生活が変わっちゃったりする事が、怖いんじゃないの」
「そう、なのか?」
「だってうちらの年齢なら、好奇心に突っ走っちゃうくらいが普通でしょ。それが出来ないってのは、やっぱ怖いからでしょ」
 づけづけと物を言ってのける女だった。自分でも気づいていなかった内面に、まさに土足で踏み込まれたような感覚。なのに、不思議と腹が立ってこない。
「西倉は怖くないの?」
「あたしは喜んで受け入れるけど」
「度胸あんな、やっぱ」
 俺が関心してみせると、俺の目を見るなり彼女は「あー、なるほど」と顎を触って見せた。
「え、何?」
「いや、こっちの話。まぁとにかく、あたしは、変化は良いことだと思ってるから、何かそのきっかけがあれば喜んで拾いに行くよ。じゃないと、退屈しない?」
「そんな事、考えた事も無かった」
「まぁそういうのは人それぞれだと思うけど。せっかくいい機会なんだし、どうせなら思い切ってガツンと行けばいいじゃん。それで何か失う訳じゃあないんだし」
 そういって西倉は笑って見せた。
 俺は心底、こいつの事を尊敬した。同世代の女は馬鹿ばっかりだと思っていたが、そうでもないのかも知れない。少なくとも目の前にいる西倉という女性は、しっかりと自分を持っていて、度胸があって、それでいて頼もしかった。そろそろ行くね、という彼女に、お礼を言いたかった。
「西倉、お前」
「麻子でいいよ」
「えっと、麻子、お前、良い奴だな」
 彼女はにやりとして、
「雑誌の受け売りだけどね」
「言わなきゃかっこいいのに」
 彼女はハハハと短く笑った。俺も思わず笑顔になる。こんなすごい娘が親友なら、有美も心配いらないと思った。そしてその保護者染みた思考に、少し恥ずかしくなる。
「そうそう、余計な事だと思うけど」
 数メートル離れた所で彼女は振りかえる。
「灰谷クンと有美の話、あれ、誤解だから」
「え?」
「詳しくは本人に聞いてみてー」
 そう言って彼女はくるりと回って真っ赤な傘を肩に担いで帰っていく。
 励まされたと思った。そう思うと、急に肩の荷が降りたように体は軽くなり、思考はすっきりした。
 そうだ。俺は何をくよくよしていたんだろう。こんなのは、ちっとも俺らしく無いじゃないか。
 まさか女子にこうして諭される事があるなんて思わなかった。西倉麻子はすごい奴だ。
 俺は彼女の後ろ姿を最後まで見送って、心の中でその背中に「ありがとう」と言い続けた。

 帰り道、気がつくと雨は上がっていた。雲の合間から差し込む光が、なんとも眩しい。こんな時の太陽の光ほど、ありがたいものはない。そう感じてしまう。そういえば、あの日もこんな感じだった。
 空音を祖父の工房で見つけて、二人で手を繋いで帰ったあの日。俺は兄妹のつながりを感じていた。それは、血という物理的なものではなく、もっと精神的な何か。俺達はこの先もずっとこうして支えあっていくんだと思っていた。あの小さく弱い手を、どこまでも引いて行ってやるつもりだった。
 不真面目な俺と違って、空音は生真面目だった。幼少の頃、ピアノを習っていた俺に続くようにピアノを習い始めた彼女だったが、あっという間に俺を追い越していた。元より音楽的素養に恵まれていたという節もあるだろうが、彼女の場合はどちらかと言うと秀才タイプだったように思う。
 最初のコンクールがその始まりだった。同世代の女の子ではとても弾く事すら適わないような難曲を演目に挙げていたのが周囲の目に留まり、注目を集めた。地域の末端とも言える寂れたコンクールだったが、だからこそ余計に、八歳の少女が難曲に挑戦するという話題はメディアにとって格好の的だった。当然、メディアと言っても地域新聞やローカル局の撮影がせいぜいであったし、その動機は栄光の瞬間を収めようという精神の類では決して無かった。「どうせ弾きこなせる訳がない」という、知識人達の冷やかしが主な原動力であり、そして高視聴率を見込める本筋であった。
 ところが空音は本番で、一つのミスもなく弾き切ったのだった。そればかりか、ちゃんと音楽的表現がなされていた。
 周囲は驚いた。指の運動と考えれば、おたまじゃくしをミスなく弾く事はそれほど難しい事ではないのかも知れない。だがしかし彼女はその上の次元の、解釈可能な演奏表現を行っていた。それはつまり、おたまじゃくしを一つも間違わずに演奏出来るだけの技術を既に持ち合わせていて、余裕を持ってその上のレベルで演奏をしていたという事になるからだ。彼女は初出場のコンクールで栄冠を手にした。
 そしてこの瞬間、彼女の人生の殆どが決定してしまった。
 「天才少女現る」とありきたりな見出しが地域を騒がせたのは言うまでも無く、ただでさえ話題に乏しい田舎町だったから、その注目度は抜群に高かった。そしてその強すぎる関心は「期待」という名の束縛を生み、彼女の生活を圧迫していた。
 彼女は決して天才などでは無かった。好奇心旺盛な彼女の原動力の大半はそこにあった。たまたま兄弟が習っていたからという理由で興味を持っただけで、だからこその練習だった。年齢を重ねるごとに視野が広がっていくと、彼女にとってピアノは興味の対象の一ファクターでしかなくなっていった。
 しかし周囲はそれをよしとしなかった。彼女の興味がすでに失われかけていようとも、周囲の期待という拘束が解かれる事は無かった。よりによってその圧力の最たるが母親だったからタチが悪く、彼女が練習を拒否するようになれば、二人の関係に溝が生まれるのは明白だった。
 そんな彼女が救いを求めたのが俺だった。俺はとうにピアノをやめていて、中学入学を期に本格的に始めたバスケに夢中になっていた。練習相手がほしかったのもあって、鬱憤で膨れ上がった彼女を連れ出しては、泥んこになるまで遊んでいた。生真面目な彼女は真摯に遊び倒して、そんじょそこらの男の子より上手くなっていた。
 また祖父の職であるガラス細工にも興味を持ったようだった。俺が部活で帰りが遅い日は代わりに祖父に構ってもらっていたようで、たまに作らせて貰っていた。そこでも彼女の勤勉な気質が功をなし、彼女が中学入学を控えた頃には、一人前にグラスを作れるようになっていた。
 そんなある日、事件は起こった。
 母親の強烈な平手打ちを受けた空音は、「やめてやる」と大声で叫びながら家を飛び出していった。どうやら空音がガラス職人を目指すと言ったことが、母親の逆鱗に触れたらしい。興味をなくしたピアノの練習など空音にとっては最早拷問でしか無く、そんなさぼりがちの娘にいら立ちを募らせていたようだ。口論の末放たれた平手打ちは彼女の面子をも傷つけたようで、完全にきれてしまった彼女は、「ピアノの練習は続ける」という自身が最初に打ち出した妥協案も放棄してしまったようだ。
 いつかはこうなるだろうとは思っていた。時間の問題だと。
 それでも俺は俺なりに彼女を心配していたし、力になりたいとも思っていた。窮屈そうに日々を送る彼女の少しでも助けになればと、色々な努力をしたつもりだった。
 でもそれは自己満足に過ぎなかった。
 だから俺は、彼女と最後に交わしたあの約束を、未だに果たせていない。


 気がつくと、防波堤と向かい合っていた。どうやら無意識のうちに、自宅から逸れてこちらに歩いてきてしまったらしい。何かにつけてこの海に遊びに来ていたからだろうか。潮の香りはいつも新鮮で、どこか懐かしい。
 そういえば、有美と来る事はあっても、空音と来たことはあまり無かった。
 立ち去ろうとした時、俺の視線が何かに突き刺さった。
 防波堤にそって五十メートルほど先、自転車を起こすその背中には見覚えがあった。私服姿、重たそうなジャケットを羽織っているが、間違いない。苧ヶ瀬修一だ。彼は起こした自転車を立てかけ、汚れを払っている。しかしなぜこんな所に奴が?
 ふいに、麻子のあの一言が頭を過る。
「それで何か失う訳じゃあないんだし」
 俺は傘を握りなおして、全速力で駆けだしていた。

「おい苧ヶ瀬!」
 久しぶりの全速力だった。苧ヶ瀬は急に呼ばれて振りむけば、凄い形相で全速力で駆けてくる俺を見て驚いたようで、勢い余って数メートル程通り越した俺を、その場で立ち止まって首から追っていた。
「お、苧ヶ瀬修一」
 俺がフルネームで呼ぶと、彼は警戒の色を浮かばせていた。困惑したその表情の中に、この人物がだれなのか、記憶と照合している様子が伺える。
「えっと・・・」
「俺は、お前のクラスの、羽立隼人だ」
 彼はようやく、ああ、と言って俺の存在を理解したらしい。予想通り、クラスの奴に対しての関心が薄いようだ。
「どうも」
 呼吸を荒立てている俺を覗き込むようにして礼をして見せる彼からは、今度は困惑の色が露骨に放たれていた。
「あ、えっと、なんだその、こうして話すのは初めてだったな」
「?ああ、そうだね」
 一体何を言っているんだ俺は。紹介して貰った相手と初めて電話した時のような、キモチワルイ事を言っている自分が嫌だった。紹介して貰った事なんてないけど。
「家、ここら辺なのか?」
 白々しいのが痛々しい。幸いにもそう思うのは俺だけだったろうが、心底、自分を見損なう。
「いや、三丁目の方。自転車で二十分くらいは掛るかな」
「そうなのか。なんでまたこんな所に」
「んーちょっとね、散歩かな?君は、えっと、羽立君、は、なんでこんな所に」
「いや、俺はあれだ、家がここら辺なんだよ」
 なんとか会話が成立して、ほっとする俺。苧ヶ瀬の表情からは警戒や困惑の色はすっかり抜け落ちている。意外と分かりやすい奴なのかも知れない。
「へー、いいね、羨ましい」
「まぁ学校近いしな」
「いやそうじゃなくて」
「え?」
「海、近いから」
 そう言って彼はその視線を、防波堤越しの海へと送っている。
 そういえば、俺は初めて苧ヶ瀬の声を聴いた。意外なほど澄んだ声をしていて、中世的な要素を感じる声。ボーカルとして歌えば、栄えそうな気がする。
「海、凄く綺麗だから」
「ああ、この海か。俺のお気に入りの場所だよ」
 自分の事でもないのに、つい自慢げな態度をとってしまう。幼き頃から通い詰めた景色の素晴らしさを伝えたかったのかも知れない。しかしこの海に目をつけるとは。中々分かる奴だな。良い感性を持っているに違いない。と、好みが共通の相手に対してはひいき目で見てしまうのが人間の心理だと思う。
「最近知ったんだけど、僕も、それから毎日通ってるよ」
「毎日?そりゃ熱心だな」
「特にやることもないからね」
「受験は?」
「推薦で決めちゃったから、なんもない」
「そっか」
「羽立君は?」
「俺、もだな」
 話題を振り間違えたと思った。実際は推薦なんて受けてない。ついでに受験するつもりもないが、それをこの場であえて言う必要はないと思った。
「所でお前さ、聴きたい事があんだけどさ」
 俺はいよいよその疑問をぶつける事にした。彼は仕切りなおして構える俺を不思議そうに見ている。
「お前、なんでいつもイヤホンしてんの?」
「え?」
「いやほら、なんだっけ、あのメーカー。とにかく良い奴、いつもしてんじゃん?俺も結構聴く方だから、普段何聴いてんのかなって。度胸あるなっつうか」
「ああー」
 彼はそう言って合点のいった表情を見せた後、少しの間を持って答えた。
「あれは、癖かな」
「癖?」
「そう、癖」
「癖って、イヤホンをするのが癖って事か?」
「そんな感じかな」
「んじゃあ別に何か聴いてる訳じゃないのか?」
「そうだね」
 イヤホンをするのが癖というのは、一体どういう事なのか。音楽を聴きすぎるあまり、装着する癖がついてしまったのだろうか。それとも装着している事によって落ち着くのだろうか。訳が分からなかった。むしろ謎は深まってしまった。
 しかし、なんだろうこの感覚。あの間と良い、急に回答のピンとがぼやけた様な気がする。その曖昧さは、話を上手く誤魔化そうとしている時のそれに、良く似ているよる。いや、どちらかといえば、話をはぐらかそうとしている時の方が近いかも知れない。
「んじゃそろそろ」
 彼はそう言って自転車を商店街へ向けた。
「え、ああ、そうか、気をつけてな」
 特に用事があった訳ではないので、俺に呼び止める術は無かった。まだまだ話足りない気はするが、話したところで、核心に近づけるとは思えない。そもそも、その掴もうとしている核心がなんなのか、俺には分かっていなかった。
「あ、そういえば」
 数メートル先で振りむきながら言う。
「ここら辺って、羽立って名字、多いの?」
「ん?いや、そんな事はないんじゃないか?俺は他に聞いたことはないけど」
「そっか」
「なんでだ」
「珍しい名字だと思って」
 彼はそう言って、自転車に飛び乗って手を挙げて、立ち漕ぎで商店街へと向かった。お前の名字も十分珍しいよと思いながら、俺はその背中を追っていた。

 今日は良く知りあいに会う日だな、と思った。それもそんなに近しくない同級生に。お陰で新郎が物凄いが、その分収穫は大きかった。特に、あの苧ヶ瀬修一と接触する機会が得られたのは本当にラッキーだった。結果得られた事は殆どないが、それでも大きな進歩だ。俺は改めて麻子に感謝した。
 意外と普通に喋る奴だったな。あんな調子だから口下手かと思いこんでいたが、ちゃんと普通にコミュニケーションが取れた事に驚きだ。
 それにあの声。全体的にあか抜けない雰囲気の苧ヶ瀬だが、声だけは違う。海のざわめきの中にも関わらず、良く通る綺麗な声だった。俺の持つ奴のイメージをぶち壊す、存在感のある声だ。
 奴を直接話して分かった事と言えば結局それくらいだった。イヤホン着用の謎は余計に深まり、その妙な存在感の背中についても、分からず仕舞いだった。
 ただ今日、奴の背中を見てひとつ気がついた。
 彼は決して存在感を放っている訳ではない。むしろ、吸い込んでいるように思える。つまり、内側から外側へ放出するのではなく、逆に、その背中へ吸収されるかのような感覚。プラスではなく、マイナスのベクトル。俺の視線は、そのブラックホールに吸い込まれている。
 錯覚かもしれない。だが対面によって余計にぶれてしまった苧ヶ瀬修一の輪郭は、そう言った錯覚を生じさせる。
 俺が抱く奴への関心の正体は、一体何なのだ。

 玄関を開けて靴を脱ぐと、何かが違う事に気がついた。居間から伝わる空気は、思い緊張感を感じさせる。
「ただいま」
 ドアを開けると、両親が向かい合って腰をかけていた。神妙な面持ち。
「お帰り」
 いつもなら明るい父の声だが、その能天気さが一切も伺えない。
「何かあった?」
 ただならぬ雰囲気だった。俺はレインコートを椅子にかけて座り、対面の母の表情を伺った。
「ちょうどいい所に帰ってきたな」
「そうね」
 共に飲みかけの珈琲はすっかり冷めてしまっている。随分と前からこんな状態だったのだろうか。
「どうした?」
 すると母はこちらへ手を伸ばし、俺の両手を包み込むように握った。母の手は、冷え切っている。そして、 俺にゆっくりと告げた。
「え?」
「これ以上、私たちのわがままには付き合わせたらかわいそうなのよ」
 あまりの衝撃に、理解が伴わない。母が、何を言っているのかが分からない。
「いま、なんて?」
 混乱する俺に、今度は父が、ゆっくりと告げた。
「空音の生命装置を外す事にした」
 


2010年3月26日金曜日

空色イヤホン 七章「橙色」

 最後に繋いだその手の感触を、今でもはっきりと覚えている。
 肉付きが少ない細い指。
 肌理の細かい柔らかい肌。
 綺麗に磨かれたピンク色の爪。
 やや冷たい体温。
 そして絡み合う意思。
 それは僕が繋いだ、最初で、最後の、愛しい手。
 

 風が吹き抜ける甲高い音で浅い眠りから覚めると、時刻は十時を回っていた。
 目覚まし時計に延びるその手が汗ばんでいる。その表面はひんやりとしていて、指先の周辺はあっという間に結露した。
 いつもなら窓から差し込む陽光の眩しさで眼が覚めるのに、今日はあいにくの曇天のようだった。部屋の中は薄暗くて夜明け前のようで、久し振りの寝坊の原因かも知れない。
 すっかり冬の温度に包まれた室内に対して、僕の体は熱いくらいに火照っていて、全身から汗が噴出していた。窓についた結露の原因は僕かも知れない。顔面を伝う汗を上着で拭き取ろうとするが、既にその許容量を迎えた上着は、その役目を放置して、逆に僕の顔面を湿らせた。
 夢を見るのは脳が記憶の整理をしているからだと言う話を聞くけれど、少なくとも僕の明け方の夢に関してはその通りだった。
 薄れゆく記憶もある中で、一向にその鮮明さを失わない記憶の一端は、こうして僕の精神を蝕むかのようだった。大量の寝汗の原因は、そこにあるように感じる。
「空・・・黒いな」
 今にも降り出しそうな天空は、灰色と黒の濃淡によって覆われている。昨日までの青さが嘘のようで、いよいよお天道様もご機嫌斜めの様子だった。気分屋がその本質だから、今までの調子が良すぎたのかも知れない。
 階段を下りて無人の居間を通り過ぎ、風呂場に直行した。目覚めと気分が悪かったし、全身にまとわりつくような汗が鬱陶しい。
 シャワーを顔面から浴びて、海の事を思った。先ほど見た感じだと海は荒れていそうだ。あの海を知ってから一度も天気が崩れた事は無かったから、初めて見る景色になるだろう。
 あの老人はどうしているのだろうか。こんな荒れ模様でも、変らずあの場所で腰を下ろして眺めているのだろうか。
 「答え」を、待っているのだろうか。
 
 自室に着替えを取りに戻ったときには、既に雨の匂いが入り込んできていた。小雨。窓から見下ろす路地のアスファルトは、まだ湿りたてと言った様子で、その表面に水が溢れている様子はない。
 外はきっと寒いだろう。風もある。冷たい雨は僕の体温を奪っていくだろう。そうしたら風邪をひくかも知れない。
 でもそれもありかも知れない。体調を崩した所で問題は無い。やり遂げなければならない事も無いから、時間はいくらでもあった。
 行こう、あの場所へ。
 そうと決めたら居てもたってもいられなくなった。雨の気配を探ることも、雲の流れを読むことも、天気予報に耳を傾けるのも、全てがどうでもよくなった。
 手を伸せば届いたモスグリーンのジャンパーをハンガーから引き摺り下ろして、脱ぎ捨ててあったジーンズをそのまま履いて部屋を飛び出した。
 悩んでいる時間が勿体無かった。
 きっと、どうせ濡れるのだから。
 それならば、少しでも早く、今日の海に出逢いたい。
 時間は沢山あるはずなのに、不思議な感覚だった。
 玄関を開ければ当然だけれど、雨だった。あたり一面が冷え切って、飛び出した僕に冷気が襲い掛かる。
 少し薄着だったかも知れない。けれども、後戻りはしたくなかった。
 サドルの水滴を右手で拭い去る。右足を持ち上げて飛び乗ったら、そのまま蹴りだした。
 何を急いでいるのか。自分でも分からない。
 ひょっとしたら僕はあの海に魅入られてしまったのではないだろうか。
 僕が空っぽだったから、あの雄大さが、僕を満たしてしまったのではないだろうか。
 だから僕はこうして、雨の中、飛び出しているんじゃないだろうか。
 それともやっぱり僕は、海に救いを求めているのだろうか。
 自分の行動の動機は分からない。この足が力強くペダルを踏み込むことに、理由が必要だとは思わない。
 ただ今日こそ、聴かなければならない。
 あの老人の名前を。

 本気を出した冬の気候は、人を容易に室内に閉じ込めた。人通りはほとんどない。数台の車とすれ違っただけで、商店街には傘を片手に自転車にまたがる僕一人だけ。ギアを軽くして、一番走り易い所を選んで、懸命に登った。ゆるやかとはいえ、それなりに長い上り坂。片手に傘を持った片手ハンドルでは上手く力を込められず疲れる。吐き出した息は白く濁って景色に溶けていく。太もも辺りがすこし震え始めたけれど、込めた力を緩めることはしなかった。ランナーズハイ、とてでも言うんだろうか。そうして何かに向かっていくことは、不思議と悪い気がしない。
 パンチラ坂を通り過ぎて、細い路地へと入っていく。砂利にハンドルを取られないようにしながら、最高速度を意識した。民家の間を海へと下るこの道は、いつもにも増して難関コースだった。弾ける泥水がジーンズに付着するのが分かる。靴下はとうに茶色く染まっていた。
 防波堤に自転車を停めて、踏み台にする。雨によって滑りやすくなったその車体で、バランスを崩しそうになる。すんでの所で防波堤にしがみついてよじ登る。道路側に向けて倒れこむ自転車には目を暮れず、その視線を海岸に送った。
 海はここでも雄大だった。
 その青いコンストラストは失われて、泥のように染まった海面と、薄暗い空。まるで風景から色素が抜け落ちてしまったかのような、モノクロームの水平線。眩しさと優しさを失った海は、代わりに激しさと悲しみを感じさせた。
 桟橋へと目を凝らす。
 先のほう、あの背中は変わらずにそこにあった。そのコートの灰色は保護色のように働いて、景色に一体化している。初めから風景の一部であったかの様に。
 僕は駆け出した。
 やっぱり、彼はいた。
 僕が背後に駆け寄ると、老人は驚いたように振り返った。
「おや、どうしたのかね?びしょびしょじゃないか」
 僕が握り締めた傘はもう殆ど機能していなかった。冷たい感触が全身を包み込んでいて、衣類はいつもより倍くらいの重さになっている。息を整えても、その重みはけだるさを感じさせた。
「こんな雨の中、何をしているんですか」
 その時、僕は何かの衝動に駆られるのを感じた。
 この感情は怒りなのだろうか。
 だとしたら何に対して怒りを感じているのだろうか。
 老人を前にして突然競りあがってきた感情の整理がつけられない。僕の声色はそれが露になっていただろう。
「答えを待っているのだよ」
 彼は帽子を目深に被りなおして、モノクロームの水平線へ目を送る。
「あなただってずぶ濡れじゃないですか」
 彼は側に傘を立てかけるようにして腰を下ろしていたけれど、沿岸の強い風の前には関係が無かった。斜めに振付ける雨は、老人の肩を黒く染めている。
「待ってて来るもんなんですか」
 なぜこんなに腹が立つのだろう。他人の事のはずなのに、自分の事のように腹がった。
 そうだ、これは怒りだ。
 こうしてずぶ濡れになりながら待つその姿に、僕は腹が立っているのだ。
 「答え」という言葉が何を指しているのか分からない苛立ち。
 待っているものが三年経っても来ないという苛立ち。
 その辛さを共有できない苛立ち。
 その苛立ちが、僕の腹を立たせているのだろうと思った。
「答えって、なんなんですか」
 彼は僕の吐き出した感情をただただ、その広い背中で受け止めていた。
「君に風邪をひかせる訳にはいかない」
 彼はしばらくの間の後そういって、膝に手をついて重い腰を持ち上げた。傘を左手に、その素足をびしょ濡れの革靴に滑り込ませて。
「ついてきなさい」


 防波堤に沿うように進んで十五分。桟橋からはそう遠くない。
 その場所は工房と言った感じだった。大きな炉のような物が一つ、部屋の中央で熱気を放っている。その側には幾何学的な形をした金属の塊や、長くて細い鉄パイプのような物が、コンクリートの地面に無造作に置かれている。そして部屋の壁には棚のような段差が設けれていて、人目見ただけではどのように扱うのか分からない、機械とか器具と言った感じのものが並べられている。
 炉を右手にみた空間には、大きな平らい、作業台らしきテーブルが置かれていて、こちらも金属片、軍手等が散乱している。そのさらに左手には階段があり、その隅には細長い空間が存在していて、壁一面が棚のような構造をしており、多数のグラスなどが陳列されていた。それらを見て、なんとなくここがガラス工房なのだろうなという察しはついていた。
「その前で温まるといい。近すぎると危険だから、気をつけなさい」
 老人はそういって奥の扉へ向かった。僕は炉の前に置かれた小さい椅子を少し引いて腰を下ろす。
 煩雑で、無機質。そんな印象だった。灰色の空間は炉が放つ橙色の光りに揺れてる。その光景は幼いときに見た、トンネルの中のような。
 こんな所であのカモメは生まれたのだろうか。あのガラスの魔力を教えてくれたガラスのサイコロも、あの陳列されたグラスたちも、全てこの場で生まれたのだろうか。
 着替えを終わらせてきた老人は、僕の肩にタオルを駆けて、なにやら湯気を立てるカップを差し出した。
「風邪をひいてしまってはいけない。よく拭いて、温まりなさい」
 そういって、作業台に腰をかけ、カップを口に運んだ。僕に手渡されたカップには香ばしい黒い液体が満たされていてた。
「ありがとうございます」
 やけどしない様にゆっくりと口に含む。思ったよりも熱くなくて、体に自然と染み渡るようだ。
「コーヒー、おいしいですね。お好きなんですか?」
 珈琲のよしあしが分かるほど大人びた味覚はしていなかったけれど、今までに飲んだどんな珈琲よりも豊かな香りで、おいしいと思った。恐らくおじいさんの作品であろう上品なカップに注がれて、より一層高級に見える。
「作業をする時はいつも飲んでいたよ。特別に好んでいた訳ではなかったのだが、続けているうちに癖になってしまってね」
 老人はそういって目を閉じて、その香りを味わっている。
「ここでいつも作業を?」
「そうだよ。と言っても最近は殆どやらないのだがね」
「え、どうしてですか?」
「作れなくなってしまったんだよ」
 彼は炉から覗く光を見つめている。老人は朱色に照らされていて、僕のところからではその表情は読み取れない。だけどその背中は初めて見た時と変わらずで、何か寂しそうな、悲哀のような物を醸し出している。
「それは、なぜですか?」
 作れなくなった。彼はそういった。それはなぜだろう。
 僕が芸術を語るにはまだ若すぎるという事は理解しているつもりだ。
 けれど、そんな僕でも分かる。彼の作品は素晴らしい。
 少なくともあのカモメにしたって、このカップにしたって、あの棚に飾られたグラスや花瓶は、僕を強く惹きつけた。今まで何気なく生きてきたけれど、こうして、何か「モノ」に対して興味を惹かれた事は無かった。
 そんなものを作れる彼が、なぜ、作れなくなってしまったのか。
 物理的要因だとしたら、なぜそれを許容しているのか。打開策は本当に無かったのだろうか。
 僕は疑問に感じた通りに質問を投げかけていた。けれどそれが、彼の私情に入り込む事だと言う事に、その時は気がついていなかった。
 彼は立ち上る湯気を見上げている。
「何も出てこなくなってしまったのだよ」
 僕はすぐに後悔した。人のとても繊細で柔らかい所に、僕は土足で踏み入れてしまった、と思った。
「すみません」
「いや、いいんだ。もう三年になる。今更どうこう思ったりはしないよ」
「三年・・・ですか」
「ああ、それくらいからだな。私はどうやら、迷ってしまったようなのだよ」
 彼は炉の脇からパイプ椅子を持ち出して、僕の横に座る。老人のセーターからは焼き焦げたような香ばしい匂いがする。
「自分の意思、想像力。そういった内側から湧き出るものが、体の外に出てこなくなってしまった。出口が分からなくなってしまったんだろうね」
「内側から湧き出るもの」
「そう。やりたい、こうしたい。実現する為に必要なのは、そういう魂の部分」
 彼の話は時々難しかった。僕にはそれがひどく抽象的に聞こえて、理解まで結びつかせるのはすぐには無理だろうと思った。
「難しいですね」
「君はまだ若い。気にする事はない。見たところ、高校生かな?」
「今年で卒業です」
「そうか」
 そういって、珈琲をすする。
「特にやりたいことも見つけられずに、大学への進学を決めてしまいました」
 何故だか、そんな事を口走ってしまった。聞かれた訳でもないのに、自然と、口から次へと次へと流れ出る。
「最初は高校に進学すれば何かが変わると思ってました。何か夢中になれるものを見つけられると思ってました」
 老人は黙って僕の声に耳を傾けている。
「でも実際は違った。僕は何一つ、変わらなかった」
 僕は世界が変わる事を期待した。自分が変わる事が出来ないなら、せめて、僕を取り巻く環境だけでも変えたい。そうすれば、僕も変化する事が出来るんだと、信じて願った。この僕の、暗くて湿った漆黒の世界を、光が満ち満ちた、眩い世界に。
「変わらなかったんですよ」
 
 僕には、親友と呼べる人がいた。
 小さくて優しい、可愛らしく、愛しい人だった。
 つかさは明るい子だった。片親で育った事を卑屈にとらえる事もなく、その寂しさを表に出すことも無かった。素直で情熱的で優しく、周囲からの評判も良かった。
 僕らは行動を共にする事が多かった。家が近所だったし、不思議と気が合った。最初は一緒にいて楽しい奴だな、くらいにしか思わなかったけれど、次第に、それは思慕の感情へと変わっていった。
 最初にその兆候が見え始めたのが、中学に入ってすぐの頃。母親の再婚を期に苗字が変わった  
 頃だった。
 いつも明るく、周囲への気配りを忘れない彼女だったのに、呆けている瞬間が増えていった。窓の外を眺めで、うなだれている事もあった。笑顔は少しづつ減っていき、声のトーンも次第に下がっていって、秋を迎えたころには、すっかり笑わなくなってしまった。
 一緒にいる事の多かった僕には、その変化がすぐに分かった。そしてその陰りの原因が、おそらく家庭にあることも。それは、彼女の肩に出来る染みのようなアザで一目瞭然だった。転んだ、というには無理があった。
 彼女は頑なだった。僕が家庭環境について問い詰めても、頑としてそれを認めなかった。二言目には、「お父さんはいい人なの。お母さんはとても幸せなの」と言って、埒があかなかった。
 いよいよ幼い僕一人ではどうすることも出来ないことを理解した。彼女の笑顔を取り戻したかった僕は、幼子頃なりに頭を巡らせ、周囲の大人達に援助を求めた。
 けれど、そういった家庭の複雑な事情に進んで肩入れしたい物などおらず、また学校もそうだった。
 僕は無力だった。
 冬休みを間近に控えたある日、彼女が学校を無断欠席した。それを知った三限目、僕はその場で早退して、彼女の家まで全速力で走った。
 今までどんな事があろうと、彼女が学校を無断欠席する事など無かった。背筋を穿つ悪寒に、駆けださずには居られなかった。
 彼女の家の玄関は鍵は閉じられておらず、誰もインターホンにも応答しなかった。僕は彼女の部屋まで向かった。
 そこで対面した彼女は、机の上で突っ伏して項垂れていた。
 周囲は手首から溢れ出るそれによって真赤に染まっていた。

 「結局、何にもしない三年間を過ごしてしまいました」
 僕は天井を見上げた。埃まみれで鼠色に染まった、採光天窓があった。絹のようなクモの巣がまとわりついていて、今にも煤と一緒に落ちてきそうだ。
「僕は変われるんだろうか」
 自分でも何を言いたかったのか、良くわからなかった。口が勝手に、僕の心の内を晒していく。老人が何も言わないから、僕は誰もいない空間で、ただ独り言を漏らしているようだった。それは僕をひどく冷静に保っていた。
「君も、答えを待っているんだね」
 沈黙を決め込んでまるで仏像の様だった彼は、重々しくそう言って、カップを作業台にコトンと置いた。
 続く言葉を待っていると、彼は何も言わずに歩き出す。この位置からでは薄暗くて、階段の隅はすでに闇だった。彼はそこへ迷いもなく、しっかりとした足取りで向かっていった。ごとごとと数回の物音ののち、胸に何かを抱えて戻って来る。埃がかぶった作業台を腕でさっと拭って、抱えたそれらを丁寧に並べていった。
「それは」
「これは君にあげたカモメの、兄弟達さ」
 並べられたガラス細工達は、炉が放つ橙の輝きに照らされている。周囲が暗いせいか濃淡がはっきり出すぎていて、細部まではわからない。
「あれが完成するまでに、ずいぶんと時間をかけたもんだった。何分そんな細かい事に挑戦した事が無かったからね。不細工だろう?」
 一番近くにあった一体に手を伸ばす。並べられた兄弟達に比べて大柄なこいつは、首から上がぶくりと太って、そのせいか表情も曇って見える。目も薄く垂れており、まるでいじけて膨れた子供のようだった。
「愛嬌のある顔ですね」
 彼は少し咳混むようにして苦笑いをする。
「作っていて最初の課題がそれだった」
「それって?」
「流石にカモメの顔なんて、近くで見たことは無かったよ」
 僕もつられて笑った。確かに、カモメってどんな顔をしてるんだろう。
「人間の観察力なんてのは結構いい加減でね、生き物のなんとなくのシルエットは描くことが出来ても、顔の造りや角の一とかは、ほとんど覚えていないと言ってもいい。試しに象の顔を書けと言われても、多くは無茶苦茶な事を書くだろう」
 確かにハッとさせられる。実際僕は象の顔を思い浮かべる事が出来なかった。
「あんなに見慣れているのに」
「全くその通りさ」
 僕たちはクスクスと笑った。最後に笑ったのはいつだったか、思い出せない。けれど今は、こんな些細な事が面白くて。それは懐かしい疲労感でもあった。
 彼は一呼吸おいて、作業台に手をのばして、
「それでもね」
 整列する兄弟の中から、一番華奢なやつを炉に向けて透かしている。
「大切なものだけは、しっかり覚えているのだよ。怖いくらいに鮮明に」
 彼が発したその言葉は、一段と深く痛覚に響いた。僕の心の中で、何かが軋む音がした。
「それは、網膜に焼き付いて、消え去る事はない」
 その眼が見ていたものは、カモメでもなく、その先の炉でもない。その橙の明かりに照らされた、ガラスの向こうの、真実の世界。彼はきっと、それを望もうとしていたのだろう。
「あの、聞いてもいいですか」
「なんだね」
「空が青くなくなったのも、その頃からなんですか」
 ずっと気になっていた事だった。
 空はいつか青く見えなくなったと言っていた。そして、造れなくなったとも言っていた。
 それはすべて、答えを待ち始めた、三年前からのことなのではないか。
 もしそうだとしたら、それは決して、幸福な事ではないのではないか。
「厳密には、青く見えなくなったと言うより、何色なのか、わからなくなってしまったと言うべきかな」
 彼はゆっくりと瞳を閉じて、少しの間をもって、そう答えた。
「そうなってしまったのは、三年前だ。造れなくなってしまったのも、答えを探し始めたのも、その頃だ」
 そう言って、目を薄く開いて、カモメを作業台へと戻す。
「何か、あったんですか」
 踏み込んではいけない事だったのかも知れない。でも僕は聞かずにはいられなかった。こんなに素晴らしいガラス細工を作れる人が、なぜそうなってしまったのか。なぜ三年間も苦しめられているのだろう。
 彼は沈黙ののち、作業台の隅に置かれた煙管を手に取り、マッチで火を灯もす。白煙の溜息が天窓を濁らせた頃、ようやく、その口を開いた。
「孫娘がいる、という話はしたね」
「うん」
「明るい子でね。幼少からピアノを習っていて、とても才能豊かな子だった。周囲から期待もされていたよ。ガラスにも興味があって、その方面でも素晴らしい感性を持っていたよ。私は、彼女とそうしてガラス細工で過ごす一日がとても好きで、幸福だった。そんな彼女がいなくなってしまったのは、、三年前。中学に入学してすぐの頃だった」
「いなくなった?」
「その日私は取引先へ出向いていてね。その子が工房に居るとは知らなかった。だから、あの程度の地震なんて気にも止めなかった」
 老人は淡々と続ける。
「私が工房に戻ると、辺りは騒がしくなっていてね。ちょうど救急車が来ていて、何事なんだと思ったが、担架で運ばれていく血だらけの彼女を見て、愕然としたよ。それから、彼女は戻ってこない」
「・・・。」
「工房に入ってすぐに分かった。棚が倒れて、ガラスの花瓶達が全部割れていてね。彼女はその下敷きになった」
 長い沈黙だった。天窓を打ち付ける雨の雑踏だけが鳴り響いている。あたりを見回すと、ガラスの作品達が、淡い橙に照らされて、不気味な存在感を放っている。
「私の作り上げてきた作品達が、彼女の為にと作ってきたものも、凶器となってしまった」
 沈黙を打ち破る言葉は、無念の情に染まっていた。煙管の白煙と共に吐き出されても、その色は失われる事なく、僕に届いた。
「それ以来私は、造れなくなった」
 僕は何も言えなかった。
 僕には生涯をかけて打ち込みたいものなど無かった。だがもし、僕がそれを持っていて、それに誇りと情熱を持っていて。信念を持って作り出したものが、自分の最愛の存在を傷つけたなら。
 心臓が軋む音が、体内で反響する。
「私が信じていたものは一体なんだったのか、わからなくなってしまった。その頃から、私の心は、ずっと彷徨い続けている」
 そういって、彼ははにかんだ。その笑顔は僕に向けられていて、やさしい表情だったけれど、幸福そうには見えなかった。目元に集まった皺は、彼の心の傷を浮き彫りにしているようにさえ感じて、切なかった。
「それは」
 事故じゃないですか。
 言えなかった。そんな言葉は慰めにもならない事を僕は知っていた。代りに深く吐き出した吐息が言葉を埋めた。
「すみません。無神経でした」
 他人には踏み込んでほしくない、そういう部分がある。それを何より理解しているのは自分だったはずなのに。全くもって愚かだった。
「気に病む事はない。それで何かが変わるということもない」
 排他的だった。けれどもその語意は毅然としている。三年という月日から学んだ無慈悲な答えだった。
 僕に出来る事はなんだろう。
 こうして彼の話を訊くことしか出来ないのだろうか。
 あの日の僕のように、世界が過ぎて行くのをただ眺めている他ないのだろうか。

「作れるでしょうか」
 長い沈黙は時間という感覚を失わせる。どれ程こうして足元を眺めていたかは分らない。そうしてやっと導き出した、僕の答えだった。
「僕にも、カモメ、作れるでしょうか」
 僕の声は震えていた。肩がこわばっているのが分かる。膝の上で強く握り返した拳が軋んでいる。
 老人の為だけじゃない。僕自身の為に何かをしたかった。
 大切なものを失ったあの日から、僕は何一つ変わってなかった。
 傷付くのが怖いから、すべてを膜の向こうに追いやってきた。自分の意思で、世界から距離を置いた。
 そんな僕に、世界が何かしてくれる訳がなかった。
「僕も作ってみたいんです」
 彼もまた、そうして時が止まってしまった、一人の被害者だった。同じ境遇に置かれた彼の心情は他人事には思えなかった。
 答えなんてものはわからない。それを知るには、僕は幼すぎる。
 けれど、もう何もしないのは嫌だった。
 もう一度、その向こう側へ、手を伸ばしてみたかった。
 そんな僕を彼は、鬚を指先で撫でながらずっと見つめていった。瞳の中には炉から放たれた橙色の光彩が浮かび上がっている。
「今日はもう帰りなさい」
 深いため息の後のその声にはっとする。
 僕はそれを拒絶だと思った。 愛する者を失ってしまった。その元凶でもあるガラス細工だった。断る理由はもはや説明がいらなかったはずなのに。
「あの、でも!」
「明日までに準備をしておこう」
「!」
 老人の笑顔がそこにはあった。目もとに皺を増やして、僅かに持ち上がった口元が、やさしかった。
「作業をするには、少し散らかっているからね。今夜いっぱいまで掛りそうだ」 
 「でも、いいんですか?」
 自分から志願しておいて、その返答はあんまりだった。
 彼といると、大人らしい言葉使いで武装した自分が、丸裸にされてしまったような気分になった。
初めて出会った時から、その感覚は徐々に強くなっている。彼に親近感を感じてしまうのは、そのせいなのかも知れない。
「ちょうどこの騒々しさが鬱陶しく感じていた所だ、いい機会だよ」
「ありがとう、ございます」
 老人は煙管を咥えて天窓を見上げて、吐き出した白煙で輪っかを作る。
「今ならちょうどいいタイミングだ」
 気が付けば、工房は鈍い光のカーテンに穿たれていた。
「あの、ずっと聞けずにいた事があるんですが」
 危うく失念しそうになっていた決意。今がまさにそのタイミングだと思った。彼は相槌は打たずに、珈琲を啜っている。
「お名前、教えてください」
 彼は眼を丸くしてこちらを見て、にっこりと笑った。
「そういえば、名乗っていなかったんだね」
「ええ、聞きそびれてました」
 彼はカップを作業台において、僕に手を差し出しながら。
「羽立雄志郎。改めてよろしく。苧ヶ瀬修一君」
  

 潮と雨の湿気が肺に心地良かった。雨はなんとか上がって、雲の隙間から差し込む光が眩しかっい。防波堤越しに感じる水平線の気配は、悲しみから解放されて、慈愛の色に満たされている。
 そういえば置きっぱなしにしてしまった自転車はどうなっているだろう。急いでいたとは言え、この大雨の中、蹴り倒してきてしまった事に若干の罪悪感を感じる。三年間に渡って通学を支えてくれた戦友だが、その扱いは尊大極まりない。
 置き去りにされたそいつは、変わらずその場所にうなだれていた。泥酔した父親を抱き起こすように、戦友を立ち上がらせる。
 長年に渡って蓄積された砂埃は、雨のお陰で少し洗い落とされているようで、水滴に陽光が差し込めばキラキラと輝いて見える。サドルも十分に水を吸って、確実にお尻まで浸透してきそうだ。
 明日またここへ来る。その時も、こいつの頑張りが必要だ。
 帰ったら、手入れくらいはしてやろう。
 
 

2010年3月12日金曜日

空色イヤホン 第六章「麻子」

   呼び止めようとしたけれど、やっぱりやめる事にした。前へ伸びた腕をそのまま返して。
彼の背中を見送る。走り出した彼にはもう見えてはいないだろう。

 「あら、もう帰っちゃったの?」
 リビングに戻った私に、母が残念そうに声をかける。
「晩御飯、一緒に食べてもらいたかったのに、残念だわ」
 そういって、今しがた並べた食器をしぶしぶ棚に戻している。
「お父さんが帰ってきてるんだって、それで」
「そうなの?それじゃあ呼び止めたら悪いわね」
 母は隼人を好意的に見てくれている。私が引っ越してきてすぐ、友達もまだろくにいない時から面倒を見てくれていたのが大きい。
 それくらいの歳の男の子、つまり中学に入学したばかりの年頃は色々と複雑で、異性に対してひどく当たったりして、傷つけられたり泣かされたり。 そういう話を良く聞いたし、実際に良く見てもいたけれど、隼人に限ってはそんな事は無かった。私が彼に対して好意的だという点を差し引いても、彼はとても紳士だった。
「ねぇお母さん」
 片付けを終えて対面する母は、隼人との夕食を逃してとても残念そうだ。自分の想い人でもないのに、なんだかおかしい。
「男の人って、難しいね」
 私のつぶやきは、母にしてみれば、すっとんきょうな質問に感じられたと思う。飲もうと持ち上げたお吸い物をテーブルに戻して、その瞳で私の真意を伺っている。
「なあに、隼人君と喧嘩でもした?」
「そんなんじゃないけど」
 母はなぜかとても愉快そうだ。私の疑問のどこにそんな要素があったのだろうか。
「有美も年頃の女の子って事かしらねぇ」
「ひょっとしてからかってる?」
「そんな事ないわよ。娘の乙女心に感動しているのよ」
「やっぱりそうなんじゃん」
 一人達観している母を前にして、なんとも言えない居づらさを感じる。
「男なんて、なんにも考えてないのよ。そして女もそう。だから考えるだけ無駄なの。所詮男と女よ、お互いが気に入られたいと思ってるだけ。だとしたら、多くの事に説明がついてしまうわ」
 母は徹底して大らかな人柄だったけれど、鋭くドライな事を言ってのける人だった。
「例えば?」
「そうねぇ、例えばあなたが思ってる疑問も。隼人君を理解したいと思うのは、彼に気に入られたいからよ。ただ側にいるだけなら理解なんて必要ないもの。それ以上を目指すからこその疑問ね。違う?」
 母はそういって、得意げにお吸い物をすする。
 隼人の事だなんて一言も言っていないのに。なんて言い逃れはするだけ無駄だった。
「適わないな、お母さんには」
「年の功よ。いたわって頂戴」
 無口で不器用な父の顔が浮かんだ。きっと父は尻に敷かれていたのだろう。



 特別な名前で呼べば、特別な関係になれる。
 占い好きの麻子が私に強要したお呪いの中で、私が採用した数少ないジンクスだった。
 理由は分かり易くて使い易そうだったから。
 面倒くさくなくて、すぐにでも実践できる、簡単なもの。
 最初はそう思っていた。

 ハダテという苗字の響きは、呼びにくかった。
 同じ「は」行からの発音でも、ハダテとハヤトでは滑らかさが違う。でこぼこな感じのハダテより、流れるようなハヤトの方が綺麗で、言い易かった。
 そんな言葉遊び的な芸術感を感じていたのかは分からないけれど、彼の周囲の人間はそう呼んでいた。
 高校に入って最初に名前を呼び捨てにしたのは私だったけれど、今となっては関係が無かった。多勢が呼べばそれは普通になってしまって、最早それに特別な意味なんてなくなってしまった。本当は中学時代からそうしていたのに、一番長くそうしていたのに、それを主張する事はとても虚しい事に思えた。
 そんな私の想いに、最初に気がついたのが、麻子だった。

 「王子様が紳士的すぎるってのも、困ったもんだね」
 学食で買って来たやきそばパンをかじりながら、私の横に腰かけて、さっと足を組む。ばっちりメークに茶髪のポニーテールがトレードマークの彼女は、今日もブラウスのボタンをひとつ余計にあけて、スカートをぎりぎりまで短くしている。セーターの合間から覗く豊満な谷間は素敵だけど、この秋空の下、寒くないのかと思う。きっと階段下の男子にはパンツが見えていると思う。
「紳士的っていうか、女に興味がないっつーか」
 やきそばパンを口に押し込んで、紙パックの珈琲牛乳をちゅるると吸う。
 麻子はいつもこんな調子で、決してお嬢様ではないけれど、それでも粗雑な素行の中に光る、品のようなものはあった。物怖じしないさばさばとした性格で、私には無いものをいっぱい持っていて、かっこよかった。
「自分からアクションを起こせない時は、相手にアクションを起こさせる。っても、彼の場合はそれも無理そうだしねぇ」
 きっとそれも何かの雑誌の受け売りなのであろう。そんなことを呟いて、秋空を仰いでいる。
「ダーリンが男に夢中だなんて大変だわ」
「変なこと言わないでよもう」
 私は膝に広げた弁当箱を半ば八つ当たりするようにして仕舞い込んだ。
「ああごめん。でもほら、苧ケ瀬、だっけ?彼も地味じゃん」
「・・・」
「どこがいいのかね」
「私が聞きたいくらいだよ」
 私から見ても、苧ケ瀬君は地味だと思う。よく見るとそれなりに奇麗な顔をしているけど、垢抜けて無いせいか、彼の養子を褒めたたえる声は聞かなかった。やっぱり影が薄くて、でもそれが、彼の存在感として成り立っているような。
 でも、隼人や私みたいに彼を気にし出すと、彼はとても不思議な存在なのだとも思えてくる。
彼を知ろうとすればするほど、彼のイメージは不鮮明になっていく。
「そーいやーさ、例のあいつ、振られたらしいよ」
「あいつって、灰谷君?」
「そ。一昨日だって」
 灰谷君。私にとってはあまり良い思い出は無い。嫌い、って言うほどでもないけど、今の私には関係の無い人。
「まぁあんな最低なやつはさっさと振られちまえばいいんだけどさ」
そういってまたストローに吸いつく。
 灰谷君に告白されたのが高校一年の、ちょうど今頃。違うクラスで、ほとんど授業で一緒になることはなかった彼が告白して来た時は、私は驚いた。それほど、私は彼に対して無知だった。
 勢いのある告白だったと思う。驚きの中でも、彼の意思は明確に私に届いていたから、きっとわかりやすい言葉を使っていたのだろう。その表情には鬼気迫るものがあって、圧倒された。
 しかし男女交際をしたことの無い私には、それに答える事が出来なかった。好きとか嫌い以前に、彼の事を知らなかったのだから。経験の無い私にとって、お互いを知るために試しに付き合ってみるとか、そういう柔軟な対応は出来そうになかった。
 だから私は、その告白を断るつもりでいた。だからもちろん、断ったつもりでいた。
 しかし翌日には、どういう訳か私と灰谷君は交際しているという事になっていて、その噂の発生源は彼にあった。彼はとても浮かれていて、誰がどう見ても、幸せの絶頂だった。
 どうやら私の断り方に問題があったらしい。私もその時何を言ったか、具体的に思い出せと言われても、今となっては難しいけれど。おそらく、友達からなら、とか、そんな有り触れた事を言ったのだと思う。私の当時の見識では、友達と恋人でははっきりとした線引きがされているはずだったので、それが交際に結びつくとは思いもしなかった。
「ばかじゃないの」
 事の真相を聞かれて、最初に薄情した相手が麻子だった。私のあいまいな返事がいけないのだと、麻子に諭されたのを覚えている。本当は慰めるなりしてほしかったという私の甘えは、簡単に見透かされた格好だった。
 それからしばらく、何度か彼の誤解を解こうとはした。しかし彼はなかなかに強引な人で、私がまごまごしていると手を引いて連れて行ってしまう。帰りのホームルームが終わって帰り支度をしているみんなの前で、いきなりそんな事をされてしまったら、もう私にはどうする事も出来なかった。その場で突き放せば彼の面子に泥を塗ってしまうだろうし、何より深く傷つけてしまう。事の発端が誤解にあるなら、その責任の半分は私にあった。そう考えると、彼に冷たくする事は出来なかった。
 そして一か月が経ったある日。
 すごい形相で教室に駆け込んできた彼は、私の手を引いて屋上まで走った。そして私に、噂は本当か、と、訪ねてきた。
 何の事かさっぱり分からずにいる私に、今まで見たことのない程怒りに満ちた視線を突き刺して、彼は怒鳴ったのだった。
 とぼけるな。あの羽立とかいう男の家から出て来るのを見た、と噂になってるぞ。
 その時、私は全てを理解した。
 私はこの一ヶ月間が、どこか私のものでないような気がしていてた。確実に当事者は私なのに、その魂はどこか別のところにいて、ただ、その風景が彩られるのを眺めているだけだったような。そんな気さえしていた。
 けどそれは錯覚だった。
 その錯覚は、逃げ、だったのだ。
 その現実が気に入らなかったから、私は逃げていただけだった。
 私はこの人を傷つけたのだろう。そして、隼人も傷つけたのだと。
 私は何もしないことで、周囲を振り回していたのだと。
 結局私は甘えん坊だった。誰かに愛されたいから、いい顔をしていたかった。だから、断る事が出来なかった。それを、相手を傷つけたくないから、などという理由に置換して、言い訳にしていた。
そしてそれは、私が隼人を好きだという気持ちの、その自覚の無さを嫌ようにも浮き彫りにした。
 自分の気持ちに自信がなかった。だから気付かない振りをしていたのだ。そしてその事すらも、忘れていた。
 だから、粛々を受け入れよう。これは私への罰なんだ。
 私は、彼の問に頷いた。

 彼はどこかで否定してほしかったのだと思う。
 けれど私はそうしなかった。
 夜会っていた、というのが何時のことかは分らない。けれど、家は近所で学校からも比較的近かったから、そんな私達が一緒にいる所を誰かに見られても、おかしくはなかった。
 灰谷君と交際しているつもりは無かった私は、その事実が問題になるとは考えもしなかった。家族ぐるみでのお付き合いがすっかり習慣化してしまっていたから、夕食にお邪魔する事だってしょっちゅうだったし、彼がお気に入りのアーティストのCDを届けてくれる事もあった。
 灰谷君は私を責めるよりまず、彼を責めた。
 だから私はそれを否定した。違うんです、悪いのは私なんです。
 彼は涙を流しながら私を責めた。他に好きな人が出来たならなぜ直ぐに言わなかったんだ、と。
私はごめん、としか言えなかった。
 初めから隼人が好きだった。君とは付き合っているつもりじゃなかった。
 今更、そんな事を言えなかった。
 だから私は、彼の言葉を黙って聞く事しか出来なかった。
「まだ彼には言ってないの?」
 俯く私に、麻子は鋭い視線を向けている。まるで断罪人のそれだと思った。
「あんたってほんとバカ」
 呆れられてもしょうがなかった。
 私はこの事を隼人に言わなかった。言えなかった。
「彼の誤解が解ければ、もっと積極的になってくれるかもしれないし、次のステップに進むチャンスじゃん」
 それは最もだった。
 灰谷君と私が別れたという噂は、翌日にはみんなに知れ渡っていた。その理由は、私が彼との約束を破ったから、という事になっていた。それに憤怒した彼が、私を見捨てた格好だ。
「あんたが浮気したから、とか言わなかったのも、まぁ面子ってもあるだろうけど、灰谷なりの優しさだったって部分もあるんじゃない?そこで変な事言いふらされたら、あんたの気持ち、最低なシチュエーションで隼人君に入ってたんだよ?」
「うん・・・」
「だからって奴が最低な事には変わりないけど。それに隼人君だって、あんたが自分から言ってこないから、気を使って聞いてこないんじゃないの?親しいと思っていた人に露骨に隠し事されたら、そりゃ距離感感じちゃうよねー」
 珈琲を飲みほして、絞り上げるように握り潰してゴミ箱に投げ入れるその動作は、私に対しての呆れを主張しているようだった。
「ごめん、わかってるんだけどさ」
「まぁ気持はわかるよ。実際は言いづらいんだろうし」
 麻子はそういって、スカートのポケットからピンク色に派手にデコレートされた携帯を取り出して、操作し始める。
「そんなあんたに、朗報が」
 私の目の前に突き出した液晶には、麻子が崇拝する恋愛占い師のウェブページが映し出されている。
「これ、あんたの設定でやったから」
 よく見ると占った日付は、確かに私の誕生日になっていた。
「思い続けた相手と大接近。特別な名前で呼べば、特別な関係になれる」
 麻子が音読する。私のやる気のない頭はとうに読むことをやめていた。
「特別な名前って、何?」
「さぁ。あだ名とかじゃないの?」
「あだ名?」
 隼人のあだ名。そういえば、彼があだ名で呼ばれているのを聞いたことがない。たいていの人間は隼人と呼び捨てていたし、苗字で呼ぶ人間は移動教室の先生かクラス委員くらいだった。
「隼人のあだ名、なんか知ってる?」
「え?んー、そういえば聞いたことないかも」
「だよね」
「あんたが作っちゃえばいいじゃん」
「え。私そういうの才能ないんだけど」
「まぁ、考える時間ならいくらでもあるんだし」
「そうだけど・・・」
 弱ったな、と思った。私にはその手のセンスが本当に無い。まず他人を本名以外で呼ぼうとしたことがあまり無かったし、思いついた事もなかった。私が相手を呼ぶ時は多勢の呼び方で、つまり、名前が定着していればそう呼ぶし、あだ名が定着していれば私もそう呼んだ。あだ名で呼ぶ事はあっても、すでに誰かが作ったものにあとから乗っかるのが精いっぱいで。慣れない呼び方で無理して呼ぶことも、なんか照れくさかった。
「あ、次体育なんだった」
 麻子は時計塔の分針が震えたのを見て、思いついたかのように立ち上がる。麻子はクラスが離れているから、移動教室先でも一緒になることはほとんど無かった。けれどもこうして、一緒に御飯を食べたり買い物に出かけたりしてくれる。親友だった。
「ねぇ、隼人って名前、あだ名に崩すの難しくない?」
 立ち上がってスカートについた砂埃をぱたぱたと叩く麻子を見上げて、私はすがる様に言った。 
 そんな私を見て、愛らしい駄目な子供を見るような目で、彼女は優しく答える。
「別に名前である必要はないんじゃない?」
「え」
「ほら、だって、彼の場合は苗字のほうが珍しいんだし」
「あ、そっか」
 携帯を勢いよく閉じて、スカートにしまい込む。引き締まったお尻と太ももが綺麗だった。彼女はパンツが見えてしまうような事があっても、不思議と野暮ったく見える事は無かった。スポーツ少女という訳でもないのに、そのメリハリのある体が羨ましい。
「あ、忘れてた。もうひとつ」
 彼女はそう言って鞄を肩に担いで、私の頭に手の平をおいて、前髪をくしゃっとする。
「苧ケ瀬脩一、実家発見したり。ついでに住所ゲット」
 彼女の左手でピースマークが作られるのとほぼ同時に、チャイムが鳴った。彼女は「やべ」と言って鞄を担ぎ直して駈け出した。
「あとでメール入れとく!」
 振り向いて、手を振る。私も負けじと振り返す。 
 ありがとう。
 言い損ねてしまったけれど、大きな声で叫ぶのもかっこ悪いから、言わなかった。

 六限が始まって少しして、麻子からメールが入った。
 メールには、彼の住所とそれを知り得た経緯が、簡潔に示されていた。
「これ住所。実家の近くでうろつく彼を発見、追跡したら家発見」
 実に麻子らしいメールだった。いまどきの女の子なのに、ちっとも文章を飾りたてたりしない。たいていはカラフルに彩られた絵文字で眩しい携帯画面も、麻子との時だけは目が疲れなかった。
 私は中庭で言いそびれたことを、やはり簡潔に書いて、返信した。
「住所貰ったよ。ありがとう」
 六限の授業は数学で、決して得意な内容ではなかった。本来ならしっかりと黒板の内容を噛み砕いて板書しなければならないのだけれど、気のりしなかった私は、板書する代りに、彼の名前を書き連ねていた。 
 羽立という字は、書くと難しい。字が比較的奇麗な私でも、バランスが取りにくかった。特に横書きの時。直覚的なデザインは文字の大小でさえも気を遣う。
 特別な名前。特別な名前で呼べば、特別な関係になれる。
 羽立という響きから言って、ありがちなあだ名を流用するのは無理に思われた。
 ペンを指先で回して窓の外を眺めて、もう十分くらい経つ。
 だめだ。やっぱり私にはそういう才能は無いんだ。考えても考えても、あだ名のあの時も浮かんで来なかった。
 溜息交じりに携帯に手をのばして、親友に助け船を求める。
「ダテチンでいいんじゃなね?なんか可愛らしくて」
 授業終了のチャイムと同時に光った携帯には、そう書かれていた。

 苧ケ瀬君の住所を送信したら、途端に彼から返信があった。
「ありがとう!明日さっそく行ってみる!」
 相も変わらず飾り気のない質素なメールに、行ってどうするの、と、意地悪を投げかけてやろうかとも思ったけれど、やめにした。
 自室の窓際のカーテンを開け放って、夜空を眺めた。連日の晴天で空気は澄み切っており、満天の星空。その輝きに似つかずの、鏡越しの自分の顔にため息を漏らす。
「情けない顔」
 傷心の表情だった。眉毛が下がって、それをごまかそうとにやついた口元が憎らしい。
 昨日のあだ名で呼ぼう作戦は失敗だった。即座に別の響きが出たから凌げたものの、予想外のクロスカウンターだった。
「下品って」
 ダテチンが下品と思われるとは想定外だった。きっとダテチンの、チンの辺りでそう思ったのだろう。男の子らしい発想だとは思うけど。麻子が可愛いなんてて言うから、そんな事思いつきもしなかったじゃないか。
「作戦失敗。ダテチンは下品だって」
 麻子に報告メールを入れて、また星空を眺めた。海沿いの夜空は、青く光り輝いている。
「実は私も思ってた」
 バイブレーションで唸る携帯を見開いて、親友のお茶目な一面に苦笑いして、布団に潜り込んだ。


2010年3月7日日曜日

更新停滞中

どうもムナゲです。ただいま更新が停滞しています。

ストーリーの大まかな流れについては出来てるのですが、組上げが難しく、難航してます。
時間が出来たらばんばんあげて生きたいと思いますので宜しくお願いします!

2010年2月28日日曜日

空色イヤホン 五章「動機」 羽立隼人編



 お使いついでに商店街の本屋で立ち読みをしていた。年末になると週刊誌の発売が滞るから、今のうちに全てチェックしておきたくなった。かと言って毎週購入してまで読んでいるかというとそんな事はなく、前の席の萩原が買ってくるから、授業中の暇つぶしになんとなく読んでいるだけだった。金を払ってまでは読む気がしないが、あれば読む。そんな感じで毎週読んでいたから、学校が終わって二日目の今日が発売日の週刊誌なんて本当はどうでもいいのだが、まぁタダで読めるならって事で立ち読みしに来た訳だ。つまり、暇だった。
 私立青海学園が出来てからは学生で賑わうようになったが、それ以前は寂れた商店街だった。特に漁業が盛んでもないこの町は完全にホームタウンで、日中大人は電車に乗って仕事に向かう。家に残るのは老人か退屈な専業主婦くらいだったからだ。それも駅から反対方向に少し行ったところに大きなスーパーが出来てしまってからは益々人口は減って、商店街が賑わうことは殆どなかった。
 そんな中の高校設立で、駅から学校に向かう生徒の通学路となったこの商店街は、若者の経済力を餌に蘇りつつある。廃業寸前だった和菓子屋さんは今では学生のたまり場となっているくらいで、その品質を維持しようとし続けた店の主人の努力が実った形だ。他にもそれなりに流行に敏感な学生の為に方針転換を図った店もいくつかあって、今俺が立ち読みに来ているこの本屋もそんな中の一軒だった。
 しかしまぁ、学生相手の商売も楽ではないと言う事だろう。本来は儲け時になる平日も、こうして学校が長期休暇に入ってしまうと悲惨な状態だ。この店舗の規模にして店員一人というシフトも驚きだが、それで事足りてしまうという実態にも驚きだ。事実こうして俺が立ち読みをしている以外は、今流行の海外スターの写真集を買いに来たばあさんが店員を困らせているだけだ。そのお目当ての品があるかどうかも怪しいもんだと思う。
 そんな状態だから、本来なら立ち読みなんて強くお断り申し上げたい所なのだろうけど、学生にはいい顔をしておきたいから追い払えない。そればかりか俺の方ががたいがいいので、明らかにひ弱そうな店員一人では心元ないというのもあるだろう。そこを理解しながら、買い物袋を床に置いて悠々自適に立ち読みを続ける俺は、やっぱり優等生とはかけ離れていた。
 あんまり長く立ち読みを続けるとセール品のばら肉が悪くなってしまうから、しぶしぶ店内を出ると、目の前を一台の自転車が通過していった。自転車には私服姿の苧ヶ瀬修一が乗っていた。
「あいつ」
 休日にこんな所で何をしていたのだろう。やたらとゆっくり進んでいたから確認できたのだが、その前籠に買い物荷物が入っているなんて事もない。やっぱりいつものようにイヤホンを耳にさして、自転車に身を任せているように見える。
 声をかけてみようかと思った。イヤホンをしているから聞こえないかも知れないが、あの速度なら少し走れば間に合う。急に呼び止められたらびっくりするかも知れないけど、いい機会だ。
「つうかあいつ俺の事しってんのかな」
 あいつはクラスの連中とあんまり喋らないくらいだから、もしかしたら知らないかも知れない。そんな俺にいきなり後ろからダッシュで近づかれて声を駆けられたらびびりやしないかな。
 そんな事を考えているうちに、苧ヶ瀬は急にペダルに足を駆けて力強く漕ぎ出した。
「あ」
 気付かれたのだろうか。あの速度を出されたら追いつけそうにない。そのまま商店街を抜けて駅の方向に折れていった。
 俺はまたチャンスを逃した。
「ばかばかしい」
 告白する機会をうかがっている女性とでもあるまいし、何をやっているんだ俺は。
 そういえばこの前手紙くれたやつ、連絡してないんだっけ。どこかで話した事のある子なら少し可愛そうな事をしたかも知れない。
 そんなことより苧ヶ瀬だ。
 元から学校が楽しくて通っているという雰囲気ではない。そんなあいつが休日登校する可能性は考えにくい。それに私服だったし。駅の方に自転車で向かった訳だから、きっと自宅に向かったのだろう。自転車登校という事実になぞらえても、それが妥当だ。
 問題はどこに行っていたのかという事だ。あの速度から言ってパンチラ坂を下ってきた訳じゃなさそうだ。もとより学校を通り過ぎたさらにその上には住宅街とみかん畑くらいしかない。友達も多そうじゃないから、誰かの家によった訳じゃないだろうし、まさか大のみかん好きなんて・・・・というかみかんが好きでも畑に行く理由にはならないし、自転車に乗りなれた男が通いなれた下り坂をあの速度で降りていくこと自体が考えられないので、却下だ。
 そもそも俺は推理なんてものが得意じゃない。比較的気分で行動する事が多い俺にとって、人の行動の動機を探るなんてのは無理難題だった。だって、衝動で人を殴っちまうこともあるかも知れないし、殴りたいと思っても、殴らない事だって十分にある。痛いのは嫌だし、疲れたくない。徹底的に探偵には向いてない人間だ。
 だが、なぜか気になる。
 なぜ苧ヶ瀬なのか。それはおれ自身にも分からなかった。
 苧ヶ瀬と俺の共通点はほとんど無い。それが見当たらないくらい、俺は奴と接点が無かった。あるとすれば、他の連中と比べていいイヤホンを使っている事くらいだろう。確かに気になるには気になるが、そんな些細な事が俺を支配しているとは思えない。当たり前の事だが、俺に男色の気は一切ない。
 それなのに、なぜ俺の視線はあいつの背中を捕らえるのか。
 原因が分からず、不気味過ぎだった。
 俺は何に囚われているのだろうか。
 答えが、知りたかった。
 
 家に帰ると、久しぶりに親父が帰宅していた。一ヶ月ぶりだった。
「おお、親父、帰ってたのか」
「おお久しぶりだな」
「隼人お帰りなさい、お使いご苦労様」
 買い物袋をお袋に手渡して、ちゃぶ台に向かってあぐらを掻く親父を目の前にして腰を下ろした。
「もうすぐ年末だからな、仕事ももう終わりだ」
 親父は海外出張が多かった。と言うより、その仕事の殆どは海外に向けられていた。細かい事は知らないが、特許関係の営業をしていて、その関係上取引相手がほぼ海外らしい。帰国したその足で会社に泊る事はざらで、ひどい時にはそのまま海外、国から国へと直接渡ることもあるらしい。

 そんな仕事リズムの親父は、翌日の仕事の場所によってはわざわざ帰ってこないのだ。空港の便などもあって、適当にホテルに泊ったりしているらしい。
 そこまでしているのに俺達家族が都心に引っ越さないのは、親父が育ったこの故郷を偉く気に入っているからだった。
「やっぱ久しぶりに帰ってくるといいな。この潮の感じ、この坂の感じ。やはり日本人には自然が必要だよ」
 そんな哲学的な事を語りながら、お袋が出したお茶と、俺が買って来たばかりのおはぎを口にする。
「晩御飯も近いんだし、あんまり食べちゃだめよ」
 台所からの母の声は良く通った。そういえば昔、父はこの声に惚れたとか言っていたな。どうでもよいが。
「そういえばもうすぐクリスマスだが、お前は今年どうすんだ」
 ふいに親父が俺に降る。
「なんにも。いつもとかわんねぇよ」
「そうか、じゃあ今年も彼女と一緒か。いい子が側にいてよかったな」
 親父は仕事一筋な堅物です、と周囲に宣伝しているかの外見なのだが、なぜかこういう浮いた話が大好きだった。
「別に有美とはそういんじゃねぇってば」
 そんな親父は毎年この手の話題を振ってくる。そしてそんな時は大体お袋が側にいて、
「あら、あんないい子なのに、そんな乱暴な言い方」
 といらぬフォローが入るのだった。俺にとっては追い討ちの他ならない。
「そうだぞ、いつも面倒みてもらって、少しは優しくしてやれよ」
「ふん」
「俺だってなぁ、母さんを落とすのは苦労したんだ」
「いやですよそんな昔の話」
「はいはい分かったよ」
 というのが年末のいつものパターンだった。我が家の両親は共に行動できる時間が少ないからなのか、未だにこうして熱々だったりする。母子家庭の萩原には羨ましいと言われたが、当の本人にはそうは思えないってのが現実だったりする。
「そうそう隼人、後で有美ちゃんのお宅に、これもって言って頂戴。作りすぎちゃったからって」
 手渡された袋にはビンが入っている。何回も持っているから、その瞬間に中身が分かるようになっていた。
「ああ、んじゃ今行って来るよ」
 この会話の流れに居づらさを感じていた俺は、丁度いい口実を利用して席を立った。夜風に当たって気分転換でもして来た頃には、少しは落ち着いているかも知れなかった。
「もうすぐお夕飯だから、長居しちゃだめよ」
「しねぇよ、そんなん」
 俺はそういって、玄関の扉を投げつけるように閉めた。
 

 沿岸のホームタウンは随分と家が立ち並んだが、それでも街中に比べればまだまだ田舎だった。街灯は十分に整理されているとは言えず、全体的に薄暗い。思わず身構えてしまいそうだが、未だに変質者だとかその類が出たという報告はない。
 玄関を右にでて、次の角を左に折れる。そうしてちょっと歩いて右の団地に入ってすぐが有美の家だ。ここら一体では比較的新しい団地で、六年前で新築だったから、未だに家は綺麗だ。沿岸だけに外壁の侵食も早いが、この一体は引越し組み、いわいるちょっとした富裕層だから、マイホームの管理には気を使っている。有美の家もその例に漏れていない。
 玄関まで来て、携帯を持ってくるのを忘れている事に気がついて、仕方なくインターホンを押した。
有美の両親はとても親切で人当たりもいいが、それゆえに、こういうちょっとした用事の時は極力合いたくなかった。
 インターホンから有美の母親の声が聞こえ、俺はマイクに向かって声を吹きかける。
「羽立です、有美いますか」
「隼人君?ちょっとまっててね」
 お母さんの優しい声がマイクから伝わってくる。機械を通した偽者の音声なのに、その優しさはここまで届いてくる。
 有美が引っ越してきた理由は喘息だと聞いたから、娘に対する愛情はよほどなのだろう。それでも過保護だなと思ったことは無かったから、とことん善良な両親なのだろう。
「隼人?どうしたの?」
 私服の有美がサンダルを引っ掛けて玄関から出てくる。ニット一枚じゃ寒いだろうに。
「おう、これ、お袋がもってけって」
 俺は裸で持ってきたビンを、門柱越しに渡す。
「また作りすぎちゃったって?」
「ああ、まぁそんなの口実だろうけどな」
 親父の趣味で梅酒を造っているのだが、どういう訳か作りすぎるのが羽立家だった。母親はあんまり飲まないから、その消費元は限定されるのだが、学習しない親父だった。
「いつもありがとう。お父さん、これおいしいって言ってて」
「そりゃあよかった」
 大きな声じゃ言えないが、確かにおいしい。親父の長年の研究と拘りが詰め込まれていて、その風味で育った俺には自然と染み渡る味だった。
「上がってけば?」
 有美は門柱に腕を組んでもたれ掛かる。胸が少し寄せられて、ニット越しでもその膨らみが分かる。有美は着やせするタイプで、スタイルが良かった。身長の割りに腰の位置が高く、つまり足が長かったし、やせ過ぎという事もない。学校の連中が騒ぐだけはあった。
「いいよ、晩飯だから早く帰って来いってよ」
「そうなの?」
「ああ、親父帰ってきたしな」
「あ、お父さん帰ってきたんだ?んじゃお礼を兼ねて挨拶しに行こうかな」
「やめとけよめんどくせぇ」
「なにそれ」
「親父が喜んじゃうんだよ」
「ふふ、知ってる」
 親父は有美の事を大層気に入っていて、うちに訪れるたびに食卓を囲んでいたりした。そして酒が入ってくると調子に乗って「息子を宜しく頼む」とか言い出すから面倒くさかった。それにさっきそんな空気になったばっかりだから、余計にいい予感がしない。
「でもまたお話したいな。お父さんいる内に呼んでね?」
「ああ、近いうちにな」
「そ、近いうちにね」
 有美はあの男とはどうだったんだろう。いつの間に仲良くなってたのかも分からない。割と一緒にいるつもりだったが、そんな事全く気がつかなかった。俺には言えない事だったんだろうか。俺がいたから上手くいかなかったのだろうか。有美はいつのまに、大人になっていたんだろう。
 最近こいつと話しているとそう思うことがある。
 俺とこいつの距離は、近いようでいて、遠い。
「何かあった?」
 有美が俺の表情を伺っている。その表情はいつものように柔らかく、優しい。
「いや、別に」
「隼人がテンション低いときは、大体そう」
「そうか?低いか?」
「低いよ、私には分かる」
 根拠がないことを自信満々に言う事がある有美だったが、不思議とそれが外れた事はなかった。「さっき、あいつを見たんだ」
「苧ヶ瀬君?」 
「ああ。商店街を自転車で、私服だった」
 有美は組んだ片手を緩めて、頬杖をついて、仕方ないなぁと言った様子で俺を見ている。
「って事は学校に行ったんじゃないんだね」
「しかも、買い物って訳でもなさそうだった。あいつ、あんな所で何してたんだろ」
 俺には見当が全くつかない。奴の情報は足り無すぎた。三年間通って、休日にあいつを見たことが初めてだった。商店街は徒歩で通える距離だから、あいつが頻繁に通っているならもっと遭遇してもよさそうなのに。
「今日、アサ子に聴いたんだけどさ」
 有美は門柱から離れて、腕を組み直していた。
「苧ヶ瀬君、三丁目の方に住んでるらしいよ」
「それ本当か」
「アサ子が嘘言ってなければね」
 三丁目。駅から南側に広がるエリアだ。奴が曲がっていった方角から真っ直ぐ行けば三丁目にぶち当たる。方角的には正しい情報だ。
 でも、なぜ三丁目に住んでいる奴がこんな所まで来ているのだろう。
「行ってみれば?それで、直接話してくればいいじゃない」
「え?」
 三丁目は広い。それだけの情報では家を探すのは非常に骨だ。まだ苧ヶ瀬という苗字が珍しいのが救いだが、それでも一日は掛かるだろう。そこまでする事なのだろうか。
「アサ子、あの近所らしくて。隼人が探ってるって言ったら、住所、教えてくれたよ」
「本当か!教えてくれ!」
 しめた、と思った。あいつの家まで行けば、何か分かるかも知れない。俺が囚われたその原因が。
「教えてあげてもいいけど」
「ああ」
「ちゃんと一日で、片付けてきてね」
 有美は片腕を寒そうに抱えながら、視線を横に流している。
「クリスマスもそんな調子じゃ、嫌だから」
「ああ、一日あればあいつと話すのなんて簡単だからな」
「んー、まぁいっか」
「どうした?」
「んーん、住所、メールしといたげるから」
「分かった、あんがとな、有美」
 俺はそういって駆け出した。これで大きな前進だ。原因は分からないにしても、何かが分かるかも知れない。そう思ったら駆け出さずには居られなかった。
 

2010年2月27日土曜日

虹のかかる島 一章「レイナ」(2)

 それから数年して、彼女は軍隊にいた。
 戦闘に参加するためではなく、政府から厳しい監視を受ける為だった。
 そもそもにしてマルケナの身体的特徴が生物学的解釈では解明されていない為、特に、マルケナの女という希有な存在である彼女が、自由の身が約束されるなどありえなかった。

 大将軍メルセデスの御好意により保護観察という指令が下され、ある程度の人権を約束された今でも、未だに国民による迫害の目が彼女に向けられる。
 マルケナの女児はレイナを含めて今まででたったの名程で、なぜか出生の際に母体が死亡するケースが大半だった。またレイナ程まで成長する個体は少なく、殆どの場合は悲劇が待ち受けている為に、マルケナの女児は災厄の証として「魔女」等と呼ばれ、特に生物学的根拠もなく、人々の生活に根付いてしまっている。


 一本道の街道に沿うようにして作られた村、シイラ。
 村の中ほどまで進み、突然折れるようにしてあわられる路地へ進むと真っ白な教会がある。
 シイラに唯一存在する協会であり、今もマルケナを生み出すために積極的に活動してい る数少ない教会だ。
 成長速度は普通の人となんら変わりのないマルケナは、戦力として投入するのに時間がかかるのが最大のネックではあったが、戦争が終結に向かっている今、新たにマルケナを生み出す理由がないという国の方針だ。
 戦争が終結した場合、戦闘から戻ってきたマルケナがどう社会生活に受け入れられ、適応し、またそれがどんな影響を生むのか。
 人間を凌駕する存在に舵を取られる恐怖に怯える国の重役達が「マルケナ凍結指針」を発表したのが丁度七年前。マルケナの人権を尊重するため、あらたなマルケナを生み出す行為そのものが禁止行為とされる事はなかったものの、積極的に行われる事もなくなった。
凍結指針が公布される前までは、すべてのマルケナは専門教育機関に預けられ、国の厳重管理の下、育成がされていた。しかし凍結指針の後に誕生したマルケスに関してはこの限りではない為、一部の間ではなぜマルケナ生産自体をを禁止としなかったのかという非難の声もあったが、戦闘から戻るマルケナへの人権への配慮や金銭的事情等から、政府がこれを強行する事は出来なかったのである。
 「マルケナ生産にはそれなりの資金が必要であり、資金援助の無い今、それを行い続けるのは非常に難しく、また生産的ではないだろう」
という政府の言い訳にも近い公言が議会に提出されたのは、凍結指針採択後の二日後であった。

 そんな中、マルケナに対して未だに強い関心を保っているのが、マルケス共和国南東に位置する、このシイラである。
 シイラではマルケナは英雄として今でも友好的に捕らえられており、国政援助が無くなった今でも生産行為に対して友好的だ。その為、街中ではマルケナ児を抱きかかえた夫婦が散見される。これはシイラならではの風景でもあって、それが国から黙認されるのは、シイラという立地にも関係している。
 マルケス共和国の南東は切り立った山々が多く、その最端に位置するシイラは、主要な都市からの介入を受けづらく、その為摩擦が極めて小さい。その村独特の慣わしが発展しようとも、そもそも村意外からの介入が殆ど無い為、その事実を知る国民自体が少なく、これが問題になる事は少ない。
 しかしマルケナへの関心が高いということは、レイナにとってむしろ不都合である。
マルケナが聖者として捕らえられているのはあくまでも男性限定であって、それゆえの崇拝である。
 魔女や悪魔と言って淘汰される存在に対しても敏感であり、その信仰が絶対であるゆえに、恐怖災厄の象徴とされるマルケナ女児は徹底的に排除される傾向がある。万が一、マルケナの女児が生まれようものならば、その場で崇高なる儀式の元、絶命させられているだろう。
 シイナでレイナが歩けば、歩くだけで村人を恐怖に陥れるという事他ならない。
 それは十分に理解していたつもりではあったが、やはりこの周囲の視線は、レイナの繊細な神経を否応にも傷つける。
 本当は来たくなかった。ごめんなさい。
 レイナは言葉をその口から吐き出す事はなかったが、自我を保つため、何度も何度も意識の中でつぶやいた。


 教会の神父とおぼしき人物が眉を細めてこちらを見ている事に気がつく。
 この視線には慣れている。
 公的機関に立ち入るときは、常にこうして監査役人が見定め、初めて入管を許可されるのであるが、今のレイナにとっては精神的疲弊の対象でしかない。
「お前がレイナ・アルフィナか」
 神父はそういいながら、こちらにゆっくりと歩み寄る。その目線から警戒が解除される事はない。
「そうです」
 相手を刺激しないようにと、澄み切った無風の湖面の如くなだらかで平坦な調子で答える。それと同時に、両手を背中で組むようにして固定し、監視官へ左肩に縫い付けられた腕章を見せる。
 自分は無害である。
 それをいち早く相手に伝える事がもっとも重要な事だと言う事を、レイナは経験で理解している。
 腕を動かした直後は一瞬身構えるようにしていた神父も、背中で固定された腕に戦闘意欲がないと見るや、やや警戒を解いて、腕章が偽物でないかを確認しに近寄ってくる。
「長旅ご苦労だった。官庁がお待ちだ、入れ」
 腕章を確認し終えると、端的に、かつ威圧的にいい放つ監視官。それは正しく軍人のそれで、自身の恐怖を国の大儀に背負わせた敬礼がレイナに向けられる。レイナは軍人が嫌いだった。
「はい」
 指示に対してもっとも端的に返答できる単語を選んで、そのまま目を合わせずに中へと進む。
 太陽光を眩しく反射する白のタイル張り構造と打って変って、その内部は美しい木目が生かされた木造で、鮮やかな朱色のカーペットや群青がかったタペストリーに彩られ、教会としての格調を誇示するかの如くであった。
 私には無縁の場所だ。
 レイナはそう心の中で呟く。
 監視官が官長室を数回ノックし、扉が開けられると、奥には初老の神父が重々しい表情で腰掛けていた。
 監視官に顎で促され、入室する。扉が閉まる際、監視官の舌をうつ音が耳に入った。
「レイナ・アルフィナ特別監査官、参りました」
 レイナは軍法に習って、自分の名前と役職名を敬礼と共に発声した。
 特別監査官。それがレイナに与えられた役職だった。現在マルケス群内でたった一名の役職である。メルセデス将軍がレイナを保護して以来、マルケナ女児の生存には賛否両論あった。国の重鎮達はそれをよしとしないが、メルセデスはそうした差別を徹底的に嫌う人格者だった。
「ならば軍人であれば問題あるまい」
 国の未来を託された軍人であるならば、その生存の理由としては十分強固のものであった。
 しかし現マルケス軍に置いては、性を戦場の現場に置くことをよしとしない軍の方針の為、特別監査官は戦場には赴かない任務内容である必要があった。女性が在籍可能な役職は極めて少なく、またそれらは高度な専門技術が求められた。それら専門技術や作戦考案が出来るようになるには長い年月が求められる。周囲との摩擦が大きい彼女の環境ではそれらを習得するのにさらに時間が掛かる恐れもあった為、これも却下となる。その為メルセデスは大義名分を守る為に役職をを新設して、その第一人者としてレイナを置いたのだった。
 メルセデスデスが一つの結論として出したのが、「単独行動が可能な秘書業務」であった。
 初老の司祭は重々しく腰を上げて、その隻眼でレイナを睨むように見つめている。
「君があの英雄のお気に入りと噂される、お付きのマルケナかね?」
 その台詞は極めて排他的で警戒心を露にしたものであった。到底神父のものとは思えない語意にレイナは眉を細めながらも、頷いた。
「なるほど。確かに見れば見るほどにマルケナの特徴を色濃く感じさせる容姿をしておる。その美しさ、間違えても男ではあるまい」
 己の警戒心を払拭する為の鑑定記録をわざわざ声に出すような品の無い男。だがこれは軍関係の重鎮には共通して見られる点であり、この程度の扱いにはレイナは慣れている。対面している男が教会関係の人間なのか、もしくはそれを装った軍関係の人間なのかを計りかねていたが、お陰でそれも明白となった。
「メルセデス将軍の秘書業務の一端を兼任させて頂いております」
 レイナは膝をつき、片手を胸にあてがって深く頭を垂らす。こういう手合いの対応には慣れている。自分が決して牙を向ける相手ではないこと、忠義を尽くすことを見せ付けてやればいい。こうする事が最も任務を円滑に遂行する為に効果的であることを、その身の経験を持って理解していた。
「うむ、多忙な将軍に代わってその秘書兼任である君が、私の所にはせ参じた、と言う理解でよろしいかな?」
 司祭は背中の腰の辺りで手を組み、窓から天空を望むようにして確認を取る。レイナはその問いに対して「その通りでございます」と、端的に返答する。
「うむ。では、私が将軍に以来した内容については聴いているかね?」
「いえ、極めて秘密性の高い案件とだけ伺っております。その真意については司祭にお会いしてからと」
「よろしい」
 司祭は大げさな素振りでゆっくりと振り返り、レイナを見下ろしている。
「ではこれから貴殿に伝える事は戸外に決して漏らしてはならぬ。よろしいな?」
 レイナはその問いに対して、「はい」とだけ答えた。

虹のかかる島 一章「レイナ」(1) 



第一章 レイナ

 どうして自分は女に生まれて来たのだろう。
 自分の股から滴り落ちるやや透き通った赤い月経血をその目にする度、心の底から神経を痙攣させるほどの憎悪と悲哀にも似た喪失感が、ため息となって目前の空気を白く濁らせる。
 村の一角に立てられた女性小屋で、備え付けられた古紙山から数枚鷲づかみにし、乱暴に自分の股下へ押し当てる。そしてそが眼下で朱色に染まるの見て、屈辱的な気分になる。
 憎たらしくも図ったかのように正確に訪れる女性としての機能が、その度にレイナをまた破滅的な気分に陥れている。
 自分の出生を呪いたくなる。
 だが寸での所で、激動の時代を生き抜いた母の優しく暖かい瞳を思い出し、その衝動を胸の内の牢獄へと封じ込める。
 木製の扉に八つ当たりをするようにして、戸外に出て、洗面台へと向かう。
 まもなく冬を迎えようと本格的に凍てつく風の中、嫌悪感に駆り立てられ、何度も何度も冷水でその両手を清めた。そして最底辺まで叩き落とされた気分を払拭する為に、桶に張られた冷水へ顔を突っ込み、身と心を引き締めた。
 顔を上げ、鏡を見る。
 銀髪碧眼、肉体的強度を感じさせない白い肌、そしてやや鋭い形状の耳。
 マルケナとしての特徴を色濃く受け継いだ、自分の姿がそこにはあった。
 唇をかみ締める。
 緊急戦闘用のバトルナイフとそのホルダーをしっかりと腰に巻きつけ、髪を後頭部でひとつに結わく。
 女性小屋から村へ向かう街道へと戻り、深呼吸をして、胸を出来るだけ張って、一点の隙もないような、悠然とした姿勢で歩き始める。
 街道にそって上る太陽はまだ低く、レイナの影を村から遠ざけるように引き伸ばしている。
「自分だって、帰りたい訳じゃないんだ」
 レイナは自身の後ろ髪を引くその陰に向かって、ポツリと漏らした。
 進まねばならないのに、どこかでそれを拒絶する心が、彼女の足取りを鈍くする。そんな自分に気がつくたびに、深呼吸をして、胸を張った。そのため息の数は、日が昇ってから既にもう両手の指では数え切れない。吐いた息は冷気によって白く濁り、横殴りの日差しを浴びてキラキラと輝いて、証拠として視覚的にレイナに自覚させ、あの暗い気持ちを膨らませようとする。
 そんな負の連鎖に、ほとほと嫌になっていた。

 村に差し掛かると、初老の女性が鶏の卵を採取しようと、桶を片手に小屋の前で準備をしていた。
 無意識的にレイナは彼女を見つめる。そしてその無意識に、すぐに後悔する。
 女性はレイナの身なり、その瞳の色や碧眼と見ると、血の気の足りない表情をより一層青ざめさせて、折れるようにしてその場に座り込んだ。桶にたっぷりと入っていた鶏のえさらしき黄色の粉末が老婆の周辺に撒き散らされ、清潔感をかく前掛けをより一層黄土色に染め上げてしまっている。
 ああ、やってしまった。
 日常的に訪れる後悔だが、未だに慣れる事はない。
 震える女性を起こすために手を貸そうと近づく事も許されない。その行為自体レイナにとって善意であっても、彼女にとってそうとは限らない。場合によってはさらなる恐怖を植え付け、失神させてしまうかも知れない。
 それは繊細な心をもつレイナにとって、生傷がひとつ増えるよりも遙かに辛く、善良な心を深く抉った。
 平静を保とうと勤め、胸をより張り出して村の中心部へ足を向ける。
 しかし歩けば歩くほど、その姿勢は猫のように前のめりになっていく。
 レイナがパン屋を通れば、店は閉店した。工具店の前を通れば、主人が桑を構えた。道端で遊ぶ子供達もそそくさと民家の隅へと隠れ、その先頭を兄貴分が両腕を広げて立ち、警戒心を露にした。
 レイナに向かって駆け出そうとしている子犬を、必死に抱え込むようにして押さえる女の子。
 人々の視線がレイナの体に突き刺さり、姿勢と感情を俯きにする。
 そしていつもの自問自答が彼女の中で繰り返される。
 どうして自分は女に生まれて来たのだろう。
 どうして自分はマルケナに生まれて来たのだろう。
 おそらく永久に答えの出る事のないその問いに、レイナは十七年間も回答を探して、さまよっていた。

 マルケナは男。
 これはマルケス人にとって常識であった。
 そもそも優秀な歩兵としての開発が前提であった為、肉体的強度がより高い男性が重視されるのは当然であった。そして不思議な事に、マルケナはほとんど男しか生まれなかった。
 人間が生殖する際に、ある細工を施す。そうすれば一定の確率で、マルケナが生まれた。
色素が抜け落ちたかのような、透明感のある銀髪に、まるで宝石かのような緑色の目。そして、やや鋭くとがった耳。マルケナの特徴を知らぬ物が見たら、普通の人間となんら変わりは無い、ちょっとした個性とも言える程度の特徴を持っていた。
 マルケナは反射神経と筋持久力、そして視力、聴覚という面で、人間より優れていた。
優れている、と言っても、遙かに凌駕するほどではなく、あくまで人間という生物の範囲内で、である。歩兵が垂直とびで一メートル飛べたなら、マルケナは五十センチ高く飛べた。五十メートルを秒で走ったなら、秒で走り抜けた。走り続けて二日で倒れるなら、三日間耐えられた。より小さな音でも判別できたし、索敵距離に七十メートルの差があった。
 しかし現在の戦況での歩兵戦闘では、そのわずかとも言える差が重大な戦力さにつながった。
 マルケナは高い能力を誇るエリート兵のそれと同等か、それ以上の運動能力を全固体が有していた。
 マルケナを戦場に投入するという事は、その部隊全員をエリート以上の能力に置き換えるという事であって、直接対人による戦闘においては、圧倒的有利という状況を生み出せる。
 同時に、通常の人間とさほど変わらない外見的特長や、怪物的とまでは行かない肉体的有利性は一般市民の恐怖心を煽る事があまり無く、結果として国が言う所の「至上最悪な戦争の終止符を打つ聖者」として迎えられた。
 男は戦闘か仕事に生きる為の生物。
 長い戦争の中で生まれた信仰でそう位置づけられた男性にとって、マルケナは誇りでもあった。

 ところがレイナはマルケナでありながら、女だった。
 レイナの生涯はこのまさにこの地上に誕生した瞬間に、暗礁に乗り上げてしまったようなものであった。
 マルケナは戦闘する新人類だ。だから男であった。
 しかしレイナは戦闘民族であるマルケナとして生を受けたのにも関わらず、女だった。
 人間の延長線的能力を持つマルケナもやはり人と同じで、肉体的強度はマルケナ男性に劣っていた。
 通常の人間より運動能力に優れていても、その幅を考えると、人間の男性と互角か、わずかに不利か。そんな程度の能力であった。女性として生まれた為に、戦闘民族としての能力を犠牲にして生まれてきてしまったのだ。
 そんな彼女が人間の女性として生きる道を選べたかと言うと、そうではなかった。
 人々は戦争に疲れていた。一刻も早く、終戦を迎えたかった。
 あと一歩で終戦を迎えられるというこの状況で、戦闘に参加しないマルケナは迫害のごとく扱いを受ける。国民の願いを一身に背負って、戦場に赴く定め。だからこその誇りだ。
マルケナとして生まれたからには戦闘に参加しなくてはならない。たとえ女性として生まれてきたとしても、人間男性と同等の力を出せる可能性がある以上、女性としての幸せを願うという事は叶わなかった。仮にそれを男性が許したとしても、戦場から戻る夫をまつ人間の女性が、それを許せなかった。
 レイナの母は優しい人だった。始めはただ、身体的特徴だけを引き継いだのだと、その碧眼を見つめて神に願った。
 しかしそれがやはりマルケナの血によるものだという事が判明すると、周囲の目は色を変え、レイナは物心がつく前から、迫害の視線を浴びる事になってしまった。
 レイナの母は心を痛めた。
 女としての幸せの道を、この子にも歩かせてあげたい。
 そんな母性が、母を駆り立てたのだろう。
 徴兵要請を浴びせる軍人からレイナの手を引き、どこまでも逃げた。この子が幸せな人生を歩ける場所へ、彼女がマルケナだという事を知らない場所へ。
 マルケナに女がいるという事を殆どの国民fが知らなかった。だから、遠くに、もっと遠くに。
 母は娘の為に、反逆者となった。
 しかしその願いは叶わず、国境を越える際、駆けつけた軍人によって取り押さえられ、反逆者は死の制裁をもって下すと言う名目の元、処刑された。
 その知らせは大陸中を瞬く間にめぐり、人は「マルケナの悲劇」と言って同情したり、「魔女」と言って恐れおのいた。そして多勢は後者であった。