ムナゲのつぶやきへようこそ!

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2チャンネルの「ムナゲ」が、趣味の為に小説を書き、それをまとめたブログページです。

2010年2月28日日曜日

空色イヤホン 五章「動機」 羽立隼人編



 お使いついでに商店街の本屋で立ち読みをしていた。年末になると週刊誌の発売が滞るから、今のうちに全てチェックしておきたくなった。かと言って毎週購入してまで読んでいるかというとそんな事はなく、前の席の萩原が買ってくるから、授業中の暇つぶしになんとなく読んでいるだけだった。金を払ってまでは読む気がしないが、あれば読む。そんな感じで毎週読んでいたから、学校が終わって二日目の今日が発売日の週刊誌なんて本当はどうでもいいのだが、まぁタダで読めるならって事で立ち読みしに来た訳だ。つまり、暇だった。
 私立青海学園が出来てからは学生で賑わうようになったが、それ以前は寂れた商店街だった。特に漁業が盛んでもないこの町は完全にホームタウンで、日中大人は電車に乗って仕事に向かう。家に残るのは老人か退屈な専業主婦くらいだったからだ。それも駅から反対方向に少し行ったところに大きなスーパーが出来てしまってからは益々人口は減って、商店街が賑わうことは殆どなかった。
 そんな中の高校設立で、駅から学校に向かう生徒の通学路となったこの商店街は、若者の経済力を餌に蘇りつつある。廃業寸前だった和菓子屋さんは今では学生のたまり場となっているくらいで、その品質を維持しようとし続けた店の主人の努力が実った形だ。他にもそれなりに流行に敏感な学生の為に方針転換を図った店もいくつかあって、今俺が立ち読みに来ているこの本屋もそんな中の一軒だった。
 しかしまぁ、学生相手の商売も楽ではないと言う事だろう。本来は儲け時になる平日も、こうして学校が長期休暇に入ってしまうと悲惨な状態だ。この店舗の規模にして店員一人というシフトも驚きだが、それで事足りてしまうという実態にも驚きだ。事実こうして俺が立ち読みをしている以外は、今流行の海外スターの写真集を買いに来たばあさんが店員を困らせているだけだ。そのお目当ての品があるかどうかも怪しいもんだと思う。
 そんな状態だから、本来なら立ち読みなんて強くお断り申し上げたい所なのだろうけど、学生にはいい顔をしておきたいから追い払えない。そればかりか俺の方ががたいがいいので、明らかにひ弱そうな店員一人では心元ないというのもあるだろう。そこを理解しながら、買い物袋を床に置いて悠々自適に立ち読みを続ける俺は、やっぱり優等生とはかけ離れていた。
 あんまり長く立ち読みを続けるとセール品のばら肉が悪くなってしまうから、しぶしぶ店内を出ると、目の前を一台の自転車が通過していった。自転車には私服姿の苧ヶ瀬修一が乗っていた。
「あいつ」
 休日にこんな所で何をしていたのだろう。やたらとゆっくり進んでいたから確認できたのだが、その前籠に買い物荷物が入っているなんて事もない。やっぱりいつものようにイヤホンを耳にさして、自転車に身を任せているように見える。
 声をかけてみようかと思った。イヤホンをしているから聞こえないかも知れないが、あの速度なら少し走れば間に合う。急に呼び止められたらびっくりするかも知れないけど、いい機会だ。
「つうかあいつ俺の事しってんのかな」
 あいつはクラスの連中とあんまり喋らないくらいだから、もしかしたら知らないかも知れない。そんな俺にいきなり後ろからダッシュで近づかれて声を駆けられたらびびりやしないかな。
 そんな事を考えているうちに、苧ヶ瀬は急にペダルに足を駆けて力強く漕ぎ出した。
「あ」
 気付かれたのだろうか。あの速度を出されたら追いつけそうにない。そのまま商店街を抜けて駅の方向に折れていった。
 俺はまたチャンスを逃した。
「ばかばかしい」
 告白する機会をうかがっている女性とでもあるまいし、何をやっているんだ俺は。
 そういえばこの前手紙くれたやつ、連絡してないんだっけ。どこかで話した事のある子なら少し可愛そうな事をしたかも知れない。
 そんなことより苧ヶ瀬だ。
 元から学校が楽しくて通っているという雰囲気ではない。そんなあいつが休日登校する可能性は考えにくい。それに私服だったし。駅の方に自転車で向かった訳だから、きっと自宅に向かったのだろう。自転車登校という事実になぞらえても、それが妥当だ。
 問題はどこに行っていたのかという事だ。あの速度から言ってパンチラ坂を下ってきた訳じゃなさそうだ。もとより学校を通り過ぎたさらにその上には住宅街とみかん畑くらいしかない。友達も多そうじゃないから、誰かの家によった訳じゃないだろうし、まさか大のみかん好きなんて・・・・というかみかんが好きでも畑に行く理由にはならないし、自転車に乗りなれた男が通いなれた下り坂をあの速度で降りていくこと自体が考えられないので、却下だ。
 そもそも俺は推理なんてものが得意じゃない。比較的気分で行動する事が多い俺にとって、人の行動の動機を探るなんてのは無理難題だった。だって、衝動で人を殴っちまうこともあるかも知れないし、殴りたいと思っても、殴らない事だって十分にある。痛いのは嫌だし、疲れたくない。徹底的に探偵には向いてない人間だ。
 だが、なぜか気になる。
 なぜ苧ヶ瀬なのか。それはおれ自身にも分からなかった。
 苧ヶ瀬と俺の共通点はほとんど無い。それが見当たらないくらい、俺は奴と接点が無かった。あるとすれば、他の連中と比べていいイヤホンを使っている事くらいだろう。確かに気になるには気になるが、そんな些細な事が俺を支配しているとは思えない。当たり前の事だが、俺に男色の気は一切ない。
 それなのに、なぜ俺の視線はあいつの背中を捕らえるのか。
 原因が分からず、不気味過ぎだった。
 俺は何に囚われているのだろうか。
 答えが、知りたかった。
 
 家に帰ると、久しぶりに親父が帰宅していた。一ヶ月ぶりだった。
「おお、親父、帰ってたのか」
「おお久しぶりだな」
「隼人お帰りなさい、お使いご苦労様」
 買い物袋をお袋に手渡して、ちゃぶ台に向かってあぐらを掻く親父を目の前にして腰を下ろした。
「もうすぐ年末だからな、仕事ももう終わりだ」
 親父は海外出張が多かった。と言うより、その仕事の殆どは海外に向けられていた。細かい事は知らないが、特許関係の営業をしていて、その関係上取引相手がほぼ海外らしい。帰国したその足で会社に泊る事はざらで、ひどい時にはそのまま海外、国から国へと直接渡ることもあるらしい。

 そんな仕事リズムの親父は、翌日の仕事の場所によってはわざわざ帰ってこないのだ。空港の便などもあって、適当にホテルに泊ったりしているらしい。
 そこまでしているのに俺達家族が都心に引っ越さないのは、親父が育ったこの故郷を偉く気に入っているからだった。
「やっぱ久しぶりに帰ってくるといいな。この潮の感じ、この坂の感じ。やはり日本人には自然が必要だよ」
 そんな哲学的な事を語りながら、お袋が出したお茶と、俺が買って来たばかりのおはぎを口にする。
「晩御飯も近いんだし、あんまり食べちゃだめよ」
 台所からの母の声は良く通った。そういえば昔、父はこの声に惚れたとか言っていたな。どうでもよいが。
「そういえばもうすぐクリスマスだが、お前は今年どうすんだ」
 ふいに親父が俺に降る。
「なんにも。いつもとかわんねぇよ」
「そうか、じゃあ今年も彼女と一緒か。いい子が側にいてよかったな」
 親父は仕事一筋な堅物です、と周囲に宣伝しているかの外見なのだが、なぜかこういう浮いた話が大好きだった。
「別に有美とはそういんじゃねぇってば」
 そんな親父は毎年この手の話題を振ってくる。そしてそんな時は大体お袋が側にいて、
「あら、あんないい子なのに、そんな乱暴な言い方」
 といらぬフォローが入るのだった。俺にとっては追い討ちの他ならない。
「そうだぞ、いつも面倒みてもらって、少しは優しくしてやれよ」
「ふん」
「俺だってなぁ、母さんを落とすのは苦労したんだ」
「いやですよそんな昔の話」
「はいはい分かったよ」
 というのが年末のいつものパターンだった。我が家の両親は共に行動できる時間が少ないからなのか、未だにこうして熱々だったりする。母子家庭の萩原には羨ましいと言われたが、当の本人にはそうは思えないってのが現実だったりする。
「そうそう隼人、後で有美ちゃんのお宅に、これもって言って頂戴。作りすぎちゃったからって」
 手渡された袋にはビンが入っている。何回も持っているから、その瞬間に中身が分かるようになっていた。
「ああ、んじゃ今行って来るよ」
 この会話の流れに居づらさを感じていた俺は、丁度いい口実を利用して席を立った。夜風に当たって気分転換でもして来た頃には、少しは落ち着いているかも知れなかった。
「もうすぐお夕飯だから、長居しちゃだめよ」
「しねぇよ、そんなん」
 俺はそういって、玄関の扉を投げつけるように閉めた。
 

 沿岸のホームタウンは随分と家が立ち並んだが、それでも街中に比べればまだまだ田舎だった。街灯は十分に整理されているとは言えず、全体的に薄暗い。思わず身構えてしまいそうだが、未だに変質者だとかその類が出たという報告はない。
 玄関を右にでて、次の角を左に折れる。そうしてちょっと歩いて右の団地に入ってすぐが有美の家だ。ここら一体では比較的新しい団地で、六年前で新築だったから、未だに家は綺麗だ。沿岸だけに外壁の侵食も早いが、この一体は引越し組み、いわいるちょっとした富裕層だから、マイホームの管理には気を使っている。有美の家もその例に漏れていない。
 玄関まで来て、携帯を持ってくるのを忘れている事に気がついて、仕方なくインターホンを押した。
有美の両親はとても親切で人当たりもいいが、それゆえに、こういうちょっとした用事の時は極力合いたくなかった。
 インターホンから有美の母親の声が聞こえ、俺はマイクに向かって声を吹きかける。
「羽立です、有美いますか」
「隼人君?ちょっとまっててね」
 お母さんの優しい声がマイクから伝わってくる。機械を通した偽者の音声なのに、その優しさはここまで届いてくる。
 有美が引っ越してきた理由は喘息だと聞いたから、娘に対する愛情はよほどなのだろう。それでも過保護だなと思ったことは無かったから、とことん善良な両親なのだろう。
「隼人?どうしたの?」
 私服の有美がサンダルを引っ掛けて玄関から出てくる。ニット一枚じゃ寒いだろうに。
「おう、これ、お袋がもってけって」
 俺は裸で持ってきたビンを、門柱越しに渡す。
「また作りすぎちゃったって?」
「ああ、まぁそんなの口実だろうけどな」
 親父の趣味で梅酒を造っているのだが、どういう訳か作りすぎるのが羽立家だった。母親はあんまり飲まないから、その消費元は限定されるのだが、学習しない親父だった。
「いつもありがとう。お父さん、これおいしいって言ってて」
「そりゃあよかった」
 大きな声じゃ言えないが、確かにおいしい。親父の長年の研究と拘りが詰め込まれていて、その風味で育った俺には自然と染み渡る味だった。
「上がってけば?」
 有美は門柱に腕を組んでもたれ掛かる。胸が少し寄せられて、ニット越しでもその膨らみが分かる。有美は着やせするタイプで、スタイルが良かった。身長の割りに腰の位置が高く、つまり足が長かったし、やせ過ぎという事もない。学校の連中が騒ぐだけはあった。
「いいよ、晩飯だから早く帰って来いってよ」
「そうなの?」
「ああ、親父帰ってきたしな」
「あ、お父さん帰ってきたんだ?んじゃお礼を兼ねて挨拶しに行こうかな」
「やめとけよめんどくせぇ」
「なにそれ」
「親父が喜んじゃうんだよ」
「ふふ、知ってる」
 親父は有美の事を大層気に入っていて、うちに訪れるたびに食卓を囲んでいたりした。そして酒が入ってくると調子に乗って「息子を宜しく頼む」とか言い出すから面倒くさかった。それにさっきそんな空気になったばっかりだから、余計にいい予感がしない。
「でもまたお話したいな。お父さんいる内に呼んでね?」
「ああ、近いうちにな」
「そ、近いうちにね」
 有美はあの男とはどうだったんだろう。いつの間に仲良くなってたのかも分からない。割と一緒にいるつもりだったが、そんな事全く気がつかなかった。俺には言えない事だったんだろうか。俺がいたから上手くいかなかったのだろうか。有美はいつのまに、大人になっていたんだろう。
 最近こいつと話しているとそう思うことがある。
 俺とこいつの距離は、近いようでいて、遠い。
「何かあった?」
 有美が俺の表情を伺っている。その表情はいつものように柔らかく、優しい。
「いや、別に」
「隼人がテンション低いときは、大体そう」
「そうか?低いか?」
「低いよ、私には分かる」
 根拠がないことを自信満々に言う事がある有美だったが、不思議とそれが外れた事はなかった。「さっき、あいつを見たんだ」
「苧ヶ瀬君?」 
「ああ。商店街を自転車で、私服だった」
 有美は組んだ片手を緩めて、頬杖をついて、仕方ないなぁと言った様子で俺を見ている。
「って事は学校に行ったんじゃないんだね」
「しかも、買い物って訳でもなさそうだった。あいつ、あんな所で何してたんだろ」
 俺には見当が全くつかない。奴の情報は足り無すぎた。三年間通って、休日にあいつを見たことが初めてだった。商店街は徒歩で通える距離だから、あいつが頻繁に通っているならもっと遭遇してもよさそうなのに。
「今日、アサ子に聴いたんだけどさ」
 有美は門柱から離れて、腕を組み直していた。
「苧ヶ瀬君、三丁目の方に住んでるらしいよ」
「それ本当か」
「アサ子が嘘言ってなければね」
 三丁目。駅から南側に広がるエリアだ。奴が曲がっていった方角から真っ直ぐ行けば三丁目にぶち当たる。方角的には正しい情報だ。
 でも、なぜ三丁目に住んでいる奴がこんな所まで来ているのだろう。
「行ってみれば?それで、直接話してくればいいじゃない」
「え?」
 三丁目は広い。それだけの情報では家を探すのは非常に骨だ。まだ苧ヶ瀬という苗字が珍しいのが救いだが、それでも一日は掛かるだろう。そこまでする事なのだろうか。
「アサ子、あの近所らしくて。隼人が探ってるって言ったら、住所、教えてくれたよ」
「本当か!教えてくれ!」
 しめた、と思った。あいつの家まで行けば、何か分かるかも知れない。俺が囚われたその原因が。
「教えてあげてもいいけど」
「ああ」
「ちゃんと一日で、片付けてきてね」
 有美は片腕を寒そうに抱えながら、視線を横に流している。
「クリスマスもそんな調子じゃ、嫌だから」
「ああ、一日あればあいつと話すのなんて簡単だからな」
「んー、まぁいっか」
「どうした?」
「んーん、住所、メールしといたげるから」
「分かった、あんがとな、有美」
 俺はそういって駆け出した。これで大きな前進だ。原因は分からないにしても、何かが分かるかも知れない。そう思ったら駆け出さずには居られなかった。
 

2010年2月27日土曜日

虹のかかる島 一章「レイナ」(2)

 それから数年して、彼女は軍隊にいた。
 戦闘に参加するためではなく、政府から厳しい監視を受ける為だった。
 そもそもにしてマルケナの身体的特徴が生物学的解釈では解明されていない為、特に、マルケナの女という希有な存在である彼女が、自由の身が約束されるなどありえなかった。

 大将軍メルセデスの御好意により保護観察という指令が下され、ある程度の人権を約束された今でも、未だに国民による迫害の目が彼女に向けられる。
 マルケナの女児はレイナを含めて今まででたったの名程で、なぜか出生の際に母体が死亡するケースが大半だった。またレイナ程まで成長する個体は少なく、殆どの場合は悲劇が待ち受けている為に、マルケナの女児は災厄の証として「魔女」等と呼ばれ、特に生物学的根拠もなく、人々の生活に根付いてしまっている。


 一本道の街道に沿うようにして作られた村、シイラ。
 村の中ほどまで進み、突然折れるようにしてあわられる路地へ進むと真っ白な教会がある。
 シイラに唯一存在する協会であり、今もマルケナを生み出すために積極的に活動してい る数少ない教会だ。
 成長速度は普通の人となんら変わりのないマルケナは、戦力として投入するのに時間がかかるのが最大のネックではあったが、戦争が終結に向かっている今、新たにマルケナを生み出す理由がないという国の方針だ。
 戦争が終結した場合、戦闘から戻ってきたマルケナがどう社会生活に受け入れられ、適応し、またそれがどんな影響を生むのか。
 人間を凌駕する存在に舵を取られる恐怖に怯える国の重役達が「マルケナ凍結指針」を発表したのが丁度七年前。マルケナの人権を尊重するため、あらたなマルケナを生み出す行為そのものが禁止行為とされる事はなかったものの、積極的に行われる事もなくなった。
凍結指針が公布される前までは、すべてのマルケナは専門教育機関に預けられ、国の厳重管理の下、育成がされていた。しかし凍結指針の後に誕生したマルケスに関してはこの限りではない為、一部の間ではなぜマルケナ生産自体をを禁止としなかったのかという非難の声もあったが、戦闘から戻るマルケナへの人権への配慮や金銭的事情等から、政府がこれを強行する事は出来なかったのである。
 「マルケナ生産にはそれなりの資金が必要であり、資金援助の無い今、それを行い続けるのは非常に難しく、また生産的ではないだろう」
という政府の言い訳にも近い公言が議会に提出されたのは、凍結指針採択後の二日後であった。

 そんな中、マルケナに対して未だに強い関心を保っているのが、マルケス共和国南東に位置する、このシイラである。
 シイラではマルケナは英雄として今でも友好的に捕らえられており、国政援助が無くなった今でも生産行為に対して友好的だ。その為、街中ではマルケナ児を抱きかかえた夫婦が散見される。これはシイラならではの風景でもあって、それが国から黙認されるのは、シイラという立地にも関係している。
 マルケス共和国の南東は切り立った山々が多く、その最端に位置するシイラは、主要な都市からの介入を受けづらく、その為摩擦が極めて小さい。その村独特の慣わしが発展しようとも、そもそも村意外からの介入が殆ど無い為、その事実を知る国民自体が少なく、これが問題になる事は少ない。
 しかしマルケナへの関心が高いということは、レイナにとってむしろ不都合である。
マルケナが聖者として捕らえられているのはあくまでも男性限定であって、それゆえの崇拝である。
 魔女や悪魔と言って淘汰される存在に対しても敏感であり、その信仰が絶対であるゆえに、恐怖災厄の象徴とされるマルケナ女児は徹底的に排除される傾向がある。万が一、マルケナの女児が生まれようものならば、その場で崇高なる儀式の元、絶命させられているだろう。
 シイナでレイナが歩けば、歩くだけで村人を恐怖に陥れるという事他ならない。
 それは十分に理解していたつもりではあったが、やはりこの周囲の視線は、レイナの繊細な神経を否応にも傷つける。
 本当は来たくなかった。ごめんなさい。
 レイナは言葉をその口から吐き出す事はなかったが、自我を保つため、何度も何度も意識の中でつぶやいた。


 教会の神父とおぼしき人物が眉を細めてこちらを見ている事に気がつく。
 この視線には慣れている。
 公的機関に立ち入るときは、常にこうして監査役人が見定め、初めて入管を許可されるのであるが、今のレイナにとっては精神的疲弊の対象でしかない。
「お前がレイナ・アルフィナか」
 神父はそういいながら、こちらにゆっくりと歩み寄る。その目線から警戒が解除される事はない。
「そうです」
 相手を刺激しないようにと、澄み切った無風の湖面の如くなだらかで平坦な調子で答える。それと同時に、両手を背中で組むようにして固定し、監視官へ左肩に縫い付けられた腕章を見せる。
 自分は無害である。
 それをいち早く相手に伝える事がもっとも重要な事だと言う事を、レイナは経験で理解している。
 腕を動かした直後は一瞬身構えるようにしていた神父も、背中で固定された腕に戦闘意欲がないと見るや、やや警戒を解いて、腕章が偽物でないかを確認しに近寄ってくる。
「長旅ご苦労だった。官庁がお待ちだ、入れ」
 腕章を確認し終えると、端的に、かつ威圧的にいい放つ監視官。それは正しく軍人のそれで、自身の恐怖を国の大儀に背負わせた敬礼がレイナに向けられる。レイナは軍人が嫌いだった。
「はい」
 指示に対してもっとも端的に返答できる単語を選んで、そのまま目を合わせずに中へと進む。
 太陽光を眩しく反射する白のタイル張り構造と打って変って、その内部は美しい木目が生かされた木造で、鮮やかな朱色のカーペットや群青がかったタペストリーに彩られ、教会としての格調を誇示するかの如くであった。
 私には無縁の場所だ。
 レイナはそう心の中で呟く。
 監視官が官長室を数回ノックし、扉が開けられると、奥には初老の神父が重々しい表情で腰掛けていた。
 監視官に顎で促され、入室する。扉が閉まる際、監視官の舌をうつ音が耳に入った。
「レイナ・アルフィナ特別監査官、参りました」
 レイナは軍法に習って、自分の名前と役職名を敬礼と共に発声した。
 特別監査官。それがレイナに与えられた役職だった。現在マルケス群内でたった一名の役職である。メルセデス将軍がレイナを保護して以来、マルケナ女児の生存には賛否両論あった。国の重鎮達はそれをよしとしないが、メルセデスはそうした差別を徹底的に嫌う人格者だった。
「ならば軍人であれば問題あるまい」
 国の未来を託された軍人であるならば、その生存の理由としては十分強固のものであった。
 しかし現マルケス軍に置いては、性を戦場の現場に置くことをよしとしない軍の方針の為、特別監査官は戦場には赴かない任務内容である必要があった。女性が在籍可能な役職は極めて少なく、またそれらは高度な専門技術が求められた。それら専門技術や作戦考案が出来るようになるには長い年月が求められる。周囲との摩擦が大きい彼女の環境ではそれらを習得するのにさらに時間が掛かる恐れもあった為、これも却下となる。その為メルセデスは大義名分を守る為に役職をを新設して、その第一人者としてレイナを置いたのだった。
 メルセデスデスが一つの結論として出したのが、「単独行動が可能な秘書業務」であった。
 初老の司祭は重々しく腰を上げて、その隻眼でレイナを睨むように見つめている。
「君があの英雄のお気に入りと噂される、お付きのマルケナかね?」
 その台詞は極めて排他的で警戒心を露にしたものであった。到底神父のものとは思えない語意にレイナは眉を細めながらも、頷いた。
「なるほど。確かに見れば見るほどにマルケナの特徴を色濃く感じさせる容姿をしておる。その美しさ、間違えても男ではあるまい」
 己の警戒心を払拭する為の鑑定記録をわざわざ声に出すような品の無い男。だがこれは軍関係の重鎮には共通して見られる点であり、この程度の扱いにはレイナは慣れている。対面している男が教会関係の人間なのか、もしくはそれを装った軍関係の人間なのかを計りかねていたが、お陰でそれも明白となった。
「メルセデス将軍の秘書業務の一端を兼任させて頂いております」
 レイナは膝をつき、片手を胸にあてがって深く頭を垂らす。こういう手合いの対応には慣れている。自分が決して牙を向ける相手ではないこと、忠義を尽くすことを見せ付けてやればいい。こうする事が最も任務を円滑に遂行する為に効果的であることを、その身の経験を持って理解していた。
「うむ、多忙な将軍に代わってその秘書兼任である君が、私の所にはせ参じた、と言う理解でよろしいかな?」
 司祭は背中の腰の辺りで手を組み、窓から天空を望むようにして確認を取る。レイナはその問いに対して「その通りでございます」と、端的に返答する。
「うむ。では、私が将軍に以来した内容については聴いているかね?」
「いえ、極めて秘密性の高い案件とだけ伺っております。その真意については司祭にお会いしてからと」
「よろしい」
 司祭は大げさな素振りでゆっくりと振り返り、レイナを見下ろしている。
「ではこれから貴殿に伝える事は戸外に決して漏らしてはならぬ。よろしいな?」
 レイナはその問いに対して、「はい」とだけ答えた。

虹のかかる島 一章「レイナ」(1) 



第一章 レイナ

 どうして自分は女に生まれて来たのだろう。
 自分の股から滴り落ちるやや透き通った赤い月経血をその目にする度、心の底から神経を痙攣させるほどの憎悪と悲哀にも似た喪失感が、ため息となって目前の空気を白く濁らせる。
 村の一角に立てられた女性小屋で、備え付けられた古紙山から数枚鷲づかみにし、乱暴に自分の股下へ押し当てる。そしてそが眼下で朱色に染まるの見て、屈辱的な気分になる。
 憎たらしくも図ったかのように正確に訪れる女性としての機能が、その度にレイナをまた破滅的な気分に陥れている。
 自分の出生を呪いたくなる。
 だが寸での所で、激動の時代を生き抜いた母の優しく暖かい瞳を思い出し、その衝動を胸の内の牢獄へと封じ込める。
 木製の扉に八つ当たりをするようにして、戸外に出て、洗面台へと向かう。
 まもなく冬を迎えようと本格的に凍てつく風の中、嫌悪感に駆り立てられ、何度も何度も冷水でその両手を清めた。そして最底辺まで叩き落とされた気分を払拭する為に、桶に張られた冷水へ顔を突っ込み、身と心を引き締めた。
 顔を上げ、鏡を見る。
 銀髪碧眼、肉体的強度を感じさせない白い肌、そしてやや鋭い形状の耳。
 マルケナとしての特徴を色濃く受け継いだ、自分の姿がそこにはあった。
 唇をかみ締める。
 緊急戦闘用のバトルナイフとそのホルダーをしっかりと腰に巻きつけ、髪を後頭部でひとつに結わく。
 女性小屋から村へ向かう街道へと戻り、深呼吸をして、胸を出来るだけ張って、一点の隙もないような、悠然とした姿勢で歩き始める。
 街道にそって上る太陽はまだ低く、レイナの影を村から遠ざけるように引き伸ばしている。
「自分だって、帰りたい訳じゃないんだ」
 レイナは自身の後ろ髪を引くその陰に向かって、ポツリと漏らした。
 進まねばならないのに、どこかでそれを拒絶する心が、彼女の足取りを鈍くする。そんな自分に気がつくたびに、深呼吸をして、胸を張った。そのため息の数は、日が昇ってから既にもう両手の指では数え切れない。吐いた息は冷気によって白く濁り、横殴りの日差しを浴びてキラキラと輝いて、証拠として視覚的にレイナに自覚させ、あの暗い気持ちを膨らませようとする。
 そんな負の連鎖に、ほとほと嫌になっていた。

 村に差し掛かると、初老の女性が鶏の卵を採取しようと、桶を片手に小屋の前で準備をしていた。
 無意識的にレイナは彼女を見つめる。そしてその無意識に、すぐに後悔する。
 女性はレイナの身なり、その瞳の色や碧眼と見ると、血の気の足りない表情をより一層青ざめさせて、折れるようにしてその場に座り込んだ。桶にたっぷりと入っていた鶏のえさらしき黄色の粉末が老婆の周辺に撒き散らされ、清潔感をかく前掛けをより一層黄土色に染め上げてしまっている。
 ああ、やってしまった。
 日常的に訪れる後悔だが、未だに慣れる事はない。
 震える女性を起こすために手を貸そうと近づく事も許されない。その行為自体レイナにとって善意であっても、彼女にとってそうとは限らない。場合によってはさらなる恐怖を植え付け、失神させてしまうかも知れない。
 それは繊細な心をもつレイナにとって、生傷がひとつ増えるよりも遙かに辛く、善良な心を深く抉った。
 平静を保とうと勤め、胸をより張り出して村の中心部へ足を向ける。
 しかし歩けば歩くほど、その姿勢は猫のように前のめりになっていく。
 レイナがパン屋を通れば、店は閉店した。工具店の前を通れば、主人が桑を構えた。道端で遊ぶ子供達もそそくさと民家の隅へと隠れ、その先頭を兄貴分が両腕を広げて立ち、警戒心を露にした。
 レイナに向かって駆け出そうとしている子犬を、必死に抱え込むようにして押さえる女の子。
 人々の視線がレイナの体に突き刺さり、姿勢と感情を俯きにする。
 そしていつもの自問自答が彼女の中で繰り返される。
 どうして自分は女に生まれて来たのだろう。
 どうして自分はマルケナに生まれて来たのだろう。
 おそらく永久に答えの出る事のないその問いに、レイナは十七年間も回答を探して、さまよっていた。

 マルケナは男。
 これはマルケス人にとって常識であった。
 そもそも優秀な歩兵としての開発が前提であった為、肉体的強度がより高い男性が重視されるのは当然であった。そして不思議な事に、マルケナはほとんど男しか生まれなかった。
 人間が生殖する際に、ある細工を施す。そうすれば一定の確率で、マルケナが生まれた。
色素が抜け落ちたかのような、透明感のある銀髪に、まるで宝石かのような緑色の目。そして、やや鋭くとがった耳。マルケナの特徴を知らぬ物が見たら、普通の人間となんら変わりは無い、ちょっとした個性とも言える程度の特徴を持っていた。
 マルケナは反射神経と筋持久力、そして視力、聴覚という面で、人間より優れていた。
優れている、と言っても、遙かに凌駕するほどではなく、あくまで人間という生物の範囲内で、である。歩兵が垂直とびで一メートル飛べたなら、マルケナは五十センチ高く飛べた。五十メートルを秒で走ったなら、秒で走り抜けた。走り続けて二日で倒れるなら、三日間耐えられた。より小さな音でも判別できたし、索敵距離に七十メートルの差があった。
 しかし現在の戦況での歩兵戦闘では、そのわずかとも言える差が重大な戦力さにつながった。
 マルケナは高い能力を誇るエリート兵のそれと同等か、それ以上の運動能力を全固体が有していた。
 マルケナを戦場に投入するという事は、その部隊全員をエリート以上の能力に置き換えるという事であって、直接対人による戦闘においては、圧倒的有利という状況を生み出せる。
 同時に、通常の人間とさほど変わらない外見的特長や、怪物的とまでは行かない肉体的有利性は一般市民の恐怖心を煽る事があまり無く、結果として国が言う所の「至上最悪な戦争の終止符を打つ聖者」として迎えられた。
 男は戦闘か仕事に生きる為の生物。
 長い戦争の中で生まれた信仰でそう位置づけられた男性にとって、マルケナは誇りでもあった。

 ところがレイナはマルケナでありながら、女だった。
 レイナの生涯はこのまさにこの地上に誕生した瞬間に、暗礁に乗り上げてしまったようなものであった。
 マルケナは戦闘する新人類だ。だから男であった。
 しかしレイナは戦闘民族であるマルケナとして生を受けたのにも関わらず、女だった。
 人間の延長線的能力を持つマルケナもやはり人と同じで、肉体的強度はマルケナ男性に劣っていた。
 通常の人間より運動能力に優れていても、その幅を考えると、人間の男性と互角か、わずかに不利か。そんな程度の能力であった。女性として生まれた為に、戦闘民族としての能力を犠牲にして生まれてきてしまったのだ。
 そんな彼女が人間の女性として生きる道を選べたかと言うと、そうではなかった。
 人々は戦争に疲れていた。一刻も早く、終戦を迎えたかった。
 あと一歩で終戦を迎えられるというこの状況で、戦闘に参加しないマルケナは迫害のごとく扱いを受ける。国民の願いを一身に背負って、戦場に赴く定め。だからこその誇りだ。
マルケナとして生まれたからには戦闘に参加しなくてはならない。たとえ女性として生まれてきたとしても、人間男性と同等の力を出せる可能性がある以上、女性としての幸せを願うという事は叶わなかった。仮にそれを男性が許したとしても、戦場から戻る夫をまつ人間の女性が、それを許せなかった。
 レイナの母は優しい人だった。始めはただ、身体的特徴だけを引き継いだのだと、その碧眼を見つめて神に願った。
 しかしそれがやはりマルケナの血によるものだという事が判明すると、周囲の目は色を変え、レイナは物心がつく前から、迫害の視線を浴びる事になってしまった。
 レイナの母は心を痛めた。
 女としての幸せの道を、この子にも歩かせてあげたい。
 そんな母性が、母を駆り立てたのだろう。
 徴兵要請を浴びせる軍人からレイナの手を引き、どこまでも逃げた。この子が幸せな人生を歩ける場所へ、彼女がマルケナだという事を知らない場所へ。
 マルケナに女がいるという事を殆どの国民fが知らなかった。だから、遠くに、もっと遠くに。
 母は娘の為に、反逆者となった。
 しかしその願いは叶わず、国境を越える際、駆けつけた軍人によって取り押さえられ、反逆者は死の制裁をもって下すと言う名目の元、処刑された。
 その知らせは大陸中を瞬く間にめぐり、人は「マルケナの悲劇」と言って同情したり、「魔女」と言って恐れおのいた。そして多勢は後者であった。

虹のかかる島 序章



「虹が見たい。」
 爆炎と硝煙の嵐の中に、少年は居た。その胸に抱き抱えられた少女が最後に発したその言葉を胸に刻み、ただひたすらに地獄と化した故郷を走り続けた。放射熱で肌は焼けただれ、激しい爆音は既に鼓膜の機能を麻痺させていた。大量に吸い込んだ煤と硝煙で肺機能は大きく低下し体は思うように動かせずその視界も既に霞んでいた。全身から伝わってくる感覚は最早大半が激痛で占められ、腕から伝わってくる一人の少女の温もりだけが、彼の意識を現実へ繋ぎ止めていた。
「もうすぐだ、もうすぐなんだ。」
 語りかけても返事がない事は分かっている。これは彼女への誓いだ。自分への誓いだ。
彼は自分に言い聞かせるように、そのほとんど感覚が無い左手と、自らの血で赤く染まった右腕を奮い立たせ、彼女をしっかりと抱きかかえ直した。
 もう後戻りは出来ない。後戻りは許されない。
 彼の足はただ体を走らせる為だけに機能した。地面を踏みつけれる感覚など、もう既にない。そこにあるのは、まるで神経の内側から炎が伝わってくるような鋭い痛みと、ときより蹴りつけてしまう、そこら中に転がっている住人の死体の感触。生を持つ生物から、ただの固形物へと変化したその生生しい肉片が時より彼の足首をさらって行こうとする。 
彼の足はそんな死者の誘いを振り解き、ただ彼の身体を前方へと押し出している。
「あと少しで、つくよ。レイナ。」

序章

 リアス・ベルタリア
 北東に位置するミシア帝国と、南西のマルケス共和国。
 互いの領地拡大を名目にもう百数十年と戦争を続けている。
 太陽の軌道上、つまり赤道から線対称に位置する二つの大陸を、人々は現地の言葉で「相反する血縁」に皮肉を込めて、そう呼んだ。
 双子が瓜二つであるのと同じように、二つの国は面積も歴史も戦力も、すべてが均衡していた為、互いに決定打を設ける事が出来ず、いたずらに自身の傷口を広げていた。
 しかしそんなアリアスベルタリアも、五十年前のある歴史的出来事によって、いよいよその均衡を傾ける時を迎えた

 マルケ協和国の生物学者が行った人体実験により生み出された新人類マルケナは、その容姿ほとんど従来の人間の姿保ちながらも、高い肉体的強度を誇っていた。
長い戦争によって物資が不足し、陸戦、しかも歩兵による戦闘が中心になっていたこの戦況は、マルケナという優秀な歩兵の調達によって傾き始めたのである。
 ミシア帝国の学者はこの歴史的発明を「非人道的」だとして非難した。
 しかし自国の傷をこれ以上広げる事が出来ないマルケス共和国は、「至上最悪な戦争の終止符を打つ、聖者」としてマルケナを昇華、、虚しい争いを沈静化させる為の手段として認可、大量生産を試みるべくして国公認の人体実験が繰り返された。

 そしてそれから二十年。
 戦闘歩兵として成長したマルケナ部隊を戦闘に大規模投入したマルケス共和国は、均衡した状況を打破、確実にミシア帝国を破滅へと追いやり始めた。

 時代は、歴史的大戦争の終焉を迎えようとしていた。


空色イヤホン 四章「ガラス細工と海と空」 苧ヶ瀬修一編 (補充済み 2/28)





 冬休みに入ったからと言って、何かやる事があるのかといえば、そんな事はなかった。
 本当なら今頃は受験勉強のラストスパートをかけていて、死に物狂いで机に向かって、顔中クマだらけにするのが普通なんだろうけれど、僕の場合はそうじゃなかった。特に将来やりたい事なんてなかったから、推薦で適当な大学にさっさと合格してしまっていた。適当と言っても、それなりに無難な大学であるから世間体を気にしなくちゃいけないなんて事もないだろうし、可もなく不可もなく、多分そんな所だろうと思った。
 だからと言って悠々自適に遊びまくっていたかというと、それもやっぱり違うのだった。僕には休日にわざわざ約束を取り付けて遊びに出かけるような友人なんて居なかったし、特に打ち込む趣味も無かった。学校がある日は学校に行けばよかったのだけれど、それがなくなってしまうと、午前中から夕方までの僕の予定表はすっぽりと空白になってしまっていた。その高校初の卒業生の進学を応援する為に、冬休みはかなり長めに設けられていたから、余計に退屈が長引いてしまう結果となった。
 朝いつものように目覚めて、顔を洗って、歯を磨いて、何気なくカレンダーを見て、そういえば今日も学校が休みなんだと思い出す。特にやる事もしたい事も思いつかないから、本棚から過去に読み終えた数冊の本を取り出して、ぱらぱらとめくってみたりもした。一時期推理モノにはまっていたから、本棚に並ぶ小説の大半はミステリーだったのだけれど、展開が分かっているミステリー程つまらないものはない。謎という謎のキーを既に知ってしまっているから、わくわくするような事はない。それでも読み直すことによって、ああ、だからこの人はこんな事を言っていたんだ、という、新たな発見が待っている事はあるけれど、そこに気がつける程鮮明には覚えていないので、やはり面白くなかった。
 だから僕は、その空白となってしまった時間、本来なら学校にいる時間は、海に出かける事にした。
 あの海を眺めている時間は、僕の心が軋むことは無かった。魂の底から身軽になれるような、そんな爽快感すらあった。最近ずっとご機嫌な気分屋お天道様も、海とセットならまた雄大に見えた。
 通いなれた通学路を途中まで進んで、学校の前の長い上り坂に出る。さすが冬休みだけあって、制服に身を包んだ学生は一人も見受けられなかった。結構勾配があって風も吹くから、頭の悪い連中にはパンチラ坂なんて呼ばれていたりもするけれど、今日はそんな不名誉なレッテルを払拭する寡黙な面持ちだった。そのお姿を横目で確認した後、そのまま直進して路地に入った。
 三回目となれば随分となれて、民家の間を縫う複雑にうねったこの道も、そこそこのスピードを維持したまま通り抜ける事が出来る。日に日に海が近くなってくるような感覚がして、嬉しかった。
 防波堤にぶつかって、自転車を停めて、サドルから飛び乗る。そして立ち上がったその瞬間、僕の全身を照らす光と通り抜けていく潮風が快感だった。この海の全部が好きだけれど、もしかしたらこの瞬間が一番好きかも知れない。初めて対面したときの感動が蘇って、今でも背筋に来るものがあった。
 そして目線を右に移して桟橋の先を見る。相変わらず見事にくたびれた桟橋だけれど、その雰囲気にすっかり同化してしまった後姿を確認して、少し笑った。こんな日はまた会えるような予感があって、その通りだったから嬉しくなってしまった。
 防波堤から飛び降りて砂浜に深く足跡をつける。靴に砂が入り込んでこないように気をつけながら歩いて、桟橋に着くと今度は床を落とさないように慎重に足を進めた。
 「こんにちは」
 老人の後ろに立って、しっかりとした発音で挨拶をする。
 彼は初めてみた時からずっと同じ格好で、灰色のコートにねずみ色の帽子を着て、革靴を揃えて脱いで、腰を下ろしていた。
 「こんにちは。また来たのかい、苧ヶ瀬君」
 靴と靴下を脱ぎ捨てて腰かけると、老人は特に振り返りもせず、その水平線の向こうを望みながら返答をした。
 「覚えていてくれたんですね、名前」
 一見無愛想にも見えたけれど、その声は確かに僕を向かいいれてくれている、と思った。それよりも僕の名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。それは多分、僕が人の名前と顔を覚えるのが苦手だからなのだろうけれど。それでも僕の名前は決して覚え易くはないと思う。漢字が難しいし、響きも普遍的とは言えないから。
 「珍しい苗字だったからね、印象的だったんだよ」
 なるほど、と思った。珍しいものだから、印象的。確かにその通りだった。
 僕たちはそれからしばらくはただ海を眺めていた。特に何かを口にする訳でもなく、自然が織り成すその旋律に耳を傾けていた。人間が作り出す音とは違って、自然の音は暖かい。どんなに大きな音でもうるさいと感じる事はない。不思議だった。待ち行く人々の会話でさえうるさいと感じてしまうのに。この景色が生み出す全ての音色は、僕の鼓膜から全身を伝わって、心地よく反響する。
 「昨日はありがとうございました。」
 ふいに、お礼を言わなくてはならない事を思い出した。老人は突然の言葉に、計りかねているようだった。
 「ガラスのカモメ、嬉しかったです。さっそく机に飾っておきました」
 「ああ」
 そこまで言って、老人は理解したようだった。首から上を少しだけ僕のほうに向けて、僕の表情を伺っている。
 「机が賑やかになりましたよ」
 「そうかい、それはよかった」
 あの後老人はすぐにその場から立ち去ってしまったから、ゆっくり礼を言う時間が無かったのだった。あれだけ美しいカモメだから、きっと高価なものなのだろう。それを頂いておきながら、反射的なありがとうしか言えないなんて。
 「昨日、おじさんが作ったものだ、って言ったいたけれど、ああいうのが専門なんですか?」
 僕は興味がひかれたことを素直に聞いてみた。もし他にも沢山あるのなら、是非見てみたい。そういう打算的な事が無かったと言えば嘘になってしまうけれど。
 老人は少しはにかんで、その目じりに皺を作った。
 「私は元々、ガラス職人でね。普段はグラスや食器等を作っていたんだがね」
 「グラスって、コップとかワイングラスとか、そういう奴ですか?」
 「ああ。孫娘が出来てね、何か喜んでもらえるものを作れないか、と思って作り始めたのがきっかけなのだよ」
 「お孫さん、いらっしゃるんですね。いいんですか?そんなものを頂いてしまって」
 「いいんだよ。もう結構年頃なのだがね。最初は趣味のようなものだったんだが、作っているうちにその面白さに取り付かれていてね。気がついたらそれが仕事になっていたよ」
 老人のコートからのぞくシャツには、ガラス細工のカフスボタンが取り付けられていた。複雑な反射を起こしていて、きらきらと眩しい。
 「そのカフスも、おじさんが?」
 「ああ、これは実験的に作ったものなんだがね、なんだかんだ、使い続けていてね」
 「へぇ、すごく綺麗ですね」
 「ありがとう。でも息子には、こんなに派手なもんは仕事じゃ使えないと言われてしまったが」
 「あ、確かにそうかもしれませんね」
 コートの袖を膜って陽光にさらされたカフスは様々な色合いを見せた。僕にはとてもお洒落に見えるのだけれど、社会人のルールって言うのは、僕には分からない難しい所があるのだろう。
 「ガラスには魔力があるんだよ」
 「魔力、ですか?」
 「ああ、そう、魔力。人ははるか昔からその魔力に気がついていた」
 「え、それ本当ですか?」
 老人は僕の表情を伺って、胸ポケットから何かを取り出した。
 「これをみてごらん」
 「これは、さいころ、ですか?」
 「そう、ガラスのね。何も書いていない、ガラスで出来た立方体だよ」
 「これが、魔力と関係があるのですか?」
 「それを空にかざしてみてごらん」
 僕はそのガラスの立方体を親指と人差し指でつまむように持ち上げて、頭上に持ち上げてみる。
ミステリーを読み漁っていた僕にとて、科学的説明のつかない「魔力」等というものは到底信じられないのだけれど、老人が言うとなぜかそれっぽく感じてしまう。
 「覗いてごらん」
 「こう、?」
 「何が見える?」
 「え、何も」
 「そうじゃない、その向こう側だ」
 僕は左目を閉じて、右目でそのサイコロを注意深く観察した。そのサイコロの中には何もないし、向こう側の空が透けて見えるだけだ。
 いや、そうじゃない。
 僕は左目を開ける。
 「あ」
 「どうだい?」
 「はい、少しだけ、緑色に見えます」
 ガラスを通した世界は、少しだけ緑がかって見えた。手のひらの上で確認したときは確かに無色透明だったのだけれども、今こうして右目に映る空は、左目が見ているそれと違っていた。サイコロの角度を変えれば、空の色もまた変わった。より青く染まったり、赤く縁取られたり。眩しいくらいに光り輝いたりもした。その頂点から繋がる三面それぞれが違う表情を見せている。
 「すごい、色が変わる」
 「そう、その通りだ」
 僕はそのサイコロを下ろして、もう一度左手の手のひらの上に置いてみる。そのサイコロを通して見える僕の皮膚は、変わらず同じ色をしていた。
 「ガラスは確かに無色透明だ。それ自体に色はない。だが、我々が普段見る事の出来ない、光の色を見せてくれる」
 老人は僕の手のひらからそのサイコロを受け取って、再び胸ポケットの中にしまった。
 「君には、あの海が何色に見えるかね」
 「え、青じゃないんですか?」
 「そうだね。だが、本当はそうじゃない」
 「あ、授業で習いました。たしか青い光りの波長だけがどうとか言う」
 「そう。我々の居る所には青い光りが多く届いているからそう見えるだけだ。はるか向こうの人々がみたこの空は赤や緑に見えているのだよ」
 「緑にも、ですか?」
 「そう見える事は稀だがね。だが人が虹を七色として見えるように、理論上はその全ての色に見えるのだよ」
 「七色もですか?」
 僕にはもちろん、空が紫色や黄色に見えた事はなかった。
 「だからそう、空の本当の色は、青とは言い切れない。それは我々の幻想に過ぎないのだから。現に、そうやってガラスを通して見た空は、青いとは限らない」
 「確かに、いろんな色に見えた」
 「だとしたら、ガラスにはその幻想を取り払う力があるのではないか」
 老人はそういって、僕の表情を伺った。僕は理系の人間ではなかったから、光の屈折とか、難しい話は得意じゃなかった。
 「えっと」
 「いや、いいのだよ。そんな話もあると言うだけだよ」
 老人は再びその細い目を水平線の向こうへ送った。
 僕は少しの間、考えた。
 光りの色。
 ガラスの魔力。
 空の本当の色。
 そして人間の幻想。
 色々とめぐらせて見たけれど、やっぱり良く分からなかった。こうして見渡してみても、僕の網膜に映る世界は変わらずにいて、空は青くて、海も青かった。だから当然、空や海が青くないかも知れないという可能性は、僕の意識にはしっくり来なかった。
 それは、僕が見ている世界が、本当の世界ではないかも知れない、という事なのだろうか。
 「聞いてもいいですか?」
 「なんだね?」
 「あの、おじさんの目には、空は何色に見えているんですか?」
 僕がそう聞くと、老人は眉を細めて僕の目を見つめた。その瞳には海の青が映し出されていて、また寂しそうに見えた。
 「昔は、青色に見えていたよ」
 そういって、老人は空を仰いだ。

 
 その後僕たちはずっと水平線を眺めていた。やがて日が傾いで空が赤く染まり始めると、自然と身支度をして、特に何をする訳でもなく帰路についていた。
辺りが薄暗くなってくると、海からの風もいよいよ身を切るようになってきて、冬が近いのだという事を実感させた。
 路地を抜けて、パンチラ坂を横切って商店街に入る。自宅に戻るにはいつもこの商店街を通過しているけれど、緩やかな長い下り坂が続いてて、パンチラ坂を勢いお良く下ってくればほとんど漕がずに自宅近くまで来る事が出来る。今日はその反動がないから、自転車はチキチキと音を立てながらゆっくり進んでいく。耳に差し込んだイヤホンが空気を切り裂いてヒューヒューと音を立てていた。
 「また名前、聞きそびれちゃったな」
 そんな音に耳を傾けながら、老人の事を思い出していた。自分の名前を名乗っておきながら、相手の名前を聞いていない事を、今更ながらに思い出しているようで、そんな自分に少し傷ついた。
 「また明日会えるかな」
 そう期待をこめて、ようやく自転車のペダルに足をかけて、帰路を急いだ。
 遠く見える山並みが、夕焼けに紅く染まっている。



 


空色イヤホン 三章「初恋」 望月有美編



 初恋の相手が鈍感だと、苦労すると思う。
 初恋っていうくらいだから、人生で始めての恋で。まだ相手との距離の縮め方とか、自分の気持ちの伝え方とか、そういうことが全然分からなくて、何もかもが手探りで。
 そんな初恋の相手が鈍感で、しかもその人が身近な人だったら、やっぱり苦労すると思う。
 きっとそのままじゃ相手の人は気付いてくれない。でも、自分からそれをアピールする方法が分からない。うまく行かなくて、今の関係が壊れることが怖くて、気持ちも伝えられなくて。
 もしそんな初恋が自然に冷めてくれなかったら。きっとその人の初恋はずっと終わらない。
 だって答えが出ないから。その近しい人と、きっとずっと同じ距離で。相手も気付かないから、始まらないし、終わらない。二人の関係に変化がない。
 だからきっと、次の恋も始まらない。そうやって、次のステップに進む事が出来なくなってしまう。
 だから、初恋の相手が近しい人で、鈍感だと、苦労する。
 だって私の初恋も、そうだから。

 隼人と初めて会ったのは小学校を卒業してすぐの、三月。
 喘息だった私の健康を考えて、少しでも空気のいい所にと、両親の提案だった。
 私の喘息の原因はどちらかというとストレスからのウェイトが大きかったけれど、それで生活環境を一新出来るならと思い、それに同意する形だった。
 いじめ、と呼ぶにはまだまだかわいいものだったけれど、私にはそれが少なからず負担になっていて。それでも自分の力ではどうにもならなかったから。
 新居について、両親が色々な手続きをしに行くからと言って出かけていった。私は両親に薦めれたとおり、家の近くを迷子にならないように慎重に散策する事にした。
 住み慣れた東京よりもずっと空気が澄んでいたのが嬉しかった。東京の空気にはちょっとほこりっぽい匂いが含まれていたのだけれど、ここの空気は少し生臭いものが含まれていた。当時の私にはそれが潮の匂いだったなんて分からなかったのだけれど、不思議とその生臭さが不快じゃなくて、嬉しくなったのを覚えている。
 しばらく歩いて団地を一周した辺りで、一人の男の子と出遭った。その男の子は身長が私と同じくらいであまり高くなかったけれど、綺麗な顔立ちをしていた。最初は話しかける気はなかったのだけれど、私が歩いているのをみた彼は、シュートの練習をやめて私をじっと見つめていたから。
「あの、ここの子?」
 あまりにもまっすぐに伸びてくるその視線に、私は突き刺されたと思った。
「ああ、そうだよ。君は?みない顔だ」
 見ない顔だ、なんて。随分と大人びた言葉遣いをする子だな、と思った。
「うん、今日、ここに越してきたの」
 私を突き刺す人は多かったけれど、この子の視線は、今までのそういう視線とは違うと思った。
 小学校で私に突き刺さる視線は、卑下や敵意、妬み、哀れみや同情と言った、そういう類のものだった。
 けれど彼のそのまっすぐな視線は、今までの他の誰よりもまっすぐで、なのに心地よかった。だから私も、臆する事なく喋ることが出来たのだと思う。
「そうか、近いのか?」
 彼の質問に、私は一旦あたりを見回して、今通ってきた道を頭の中でゆっくり整理してから、新居があるであろう方向を腕から指さして、「あっちらへん」と言った。
「そうか、んじゃ近いな」
 今にして思えば、よくその説明で理解できたなぁと思う。きっとバカな女だと思われたんだろうな。
 私はここの空気の事がもっと知りたくて、勇気をだして彼に聞いてみることにした。
「ねぇ、ここの空気は少し湿ってて、なんか生臭いのが混ざってるけど、これっていつもなの?」
 幼き私の純粋な疑問だった。なぜならその時の私の最も関心深いことは空気にあったから。空気が違うということが、ただ単純に一番の驚きで、感動だったから。
 でもやっぱりこれも今思い返せば、相当に無礼な事だった。よそ者が地元のものに、「空気が生臭い」なんて。これが大人同士の会話なら、大変な事になっていたかも知れない。
 しかし彼はそんな愚かな私の質問も、茶化すことなく答えようとしてくれた。
「生臭い?んー、俺は慣れちゃってるからわかんないんだろうけど、海が近いからかもね」
 彼はそういって、腰に抱えてたバスケットボールを二、三回弾ませて、壁に備え付けたゴールへシュートした。
「海?すごい、近くに海があるの?」
 私は興奮した。都会暮らしの私には、海は憧れだった。勿論泳いだことが無かった訳じゃないけれど、水着を着るといえばプールしか無かったから。ずっと、見てみたい、出来れば泳いで見たいと思っていた。それを両親に言う事はなかったけれど。
「ああ、十分も掛からないよ」
 彼はリングに当たって跳ね返ってきたボールを上手くキャッチして、もう一度シュートを放った。
「へぇー、いいなぁ」
 私は海に恋焦がれた。海は、いったいどんな姿だろう。いったいどんな香りで、どんな音なのだろう。テレビ画面からは伝わってこない、海の息吹を体で感じてみたかった。
「いってみる?」
「え?」
「海、すぐだけど、行く?」
 彼は見事リングをくぐったバスケットボールを拾って腰に抱えて、私に再びまっすぐな視線を突き刺して、そう聞いてきた。
 行く、と即答しそうになったが、それをぎりぎりの所で堪える。両親には近所を散策してなさいとは言われたけれど、海まで行っても平気だろうか。もし私が海に行っている間に帰ってきたら、さぞ心配するのではないだろうか。
 しかしそんな理性も、海に恋焦がれた私の欲求を受け止めるのが精一杯だったようで、その時の私は完全に思考が停止してしまった。
 どんな表情をしていたかはわからないけど、そんな私を見て彼は、
「すぐ行って帰ってくれば大丈夫。海は逃げたりしないから、またいつでもいけるようになるし」
 と諭してくれたのだった。
 なんて素敵な事を言う子なのだろう。私は関心してしまった。
 海は逃げたりしないから。そのフレーズに私の幼き心はときめいた。
 それに私は、両親と待ち合わせをしている事など一言も口にしていないのに、どうして分かったのだろう。
 私はこのフレーズで彼を完全に信じ込んでしまった。知らない人についていってはダメと、散々両親には口をすっぱくされていたけれど、こうなってしまえばもう関係が無かった。この人は大丈夫。
 だから不安になる事なんてなんにもなかった。
「海、行きたい」
 私がそう言うと、彼は「わかった」と言って、ボールを庭に向かって投げ入れて、私に手招きをした。
「こっちだよ」
 彼は手招きをした反対の腕を水平に上げて、海の方向をまっすぐと指し示した。
 私は親について行くカルガモの子供のように、彼の後に続いた。彼は必要以上の言葉を発しなかったけれど、不思議と、間が持たないという事はなかった。春を控えた晴天は心地よくて、少しずつ濃さを増していく潮の香りが、私を出迎えてくれているような、そんな気さえしていた。
 団地を抜けると、高いコンクリートの壁が姿を現した。T時路にぶつかったようになっていて、その壁は左右に延々と伸びている。海を間近で見たことがない私は、この壁が防波堤という塀だという事を知らなかったから、そこで行き止まりになっていると勘違いを起こしていたのだった。
「海、ここなの?」
「そう、この向こう」
「向こう?だって、行き止まりだよ?」
 私の疑問は真剣だった。まさか自分の身長より高いこの塀をよじ登れるとは思わなかったから。もちろん彼もそんなつもりは無かっただろけど。
「あっちに出られる所があるんだ。おいで」
 彼はそういって、立ち止まる私の左手を引っ張って走り出した。引きずられるようにして私も走り出す。そしてそのまま、防波堤の切れ目にうずくまるようにして設置された階段を駆け上った。
「ほら、あっち」
 転ばないように階段をしっかりと一段一段かけのぼって、顔を上げた。
「わぁ」
 前髪が風で流れて視界から消えると、今度は白と水色と深い青色のコントラストが飛び込んできた。
「きれい」
 本当に綺麗だった。驚くほど白い砂浜と、澄み渡った晴天と、一際濃くきらきら光る、青い海。私の瞳に映し出されているものはそれだけで、それが全てだった。
「すごい、海、すごい!」
 風が心地よかった。今まで生きてきた中で、一度も浴びたことのない風。湿っていて、冷たくて、少し生臭くて。でもとても綺麗で。そして私の気管に一番優しい風だった。
 テレビの画面に映し出される映像は、何にも伝えていていないと思った。あんなものはまがい物、嘘の偽物だ。これが海なんだ。この色も、この匂いも、この風も、この温度も。この全てで、海なんだ。これが、真実の、海。
「海、初めて?」
 彼は一歩下がって、そんな私を見つめていた。私があんまりにもきらきらしているから、きっとすぐ分かってしまったのだと思った。
「うん、本物を見るの、初めて」
 隠す必要はないと思った。これだから都会っ子は、とか言って卑下したりする人じゃないと分かっていたから。人の顔色を伺う人生だった私にはそれが本能的に分かっていた。
 私がどんなに頭の悪そうな質問をしても、真剣に答えようとしてくれる少年。立ち止まった私をごわごわの手で力強く引いてくれる少年。素敵な事を言う少年。そして、どこまでも真っ直ぐに見つめてくれる少年。
 その時、心臓が強く鼓動した。
 ドクン。
 その音は体中を響き渡って、外に聞こえていそうな程大きい音だった。その振動で視界は一瞬ぶれて、体がよろけた。
「ここは俺のお気に入りの場所なんだ」
 彼が水平線を見つめて言う。その横顔を見ていると、私の心臓はまたドクン、と強く鼓動した。喘息がひどい時のように胸が苦しくて、でも咳き込んでいなくて。なのに言葉がなかなか喉から出て行ってくれない。喋りたいのに。
 でもこれだけはどうしても聞いておかなくちゃいけないような気がして、力を振り絞って。
「君の名前は?」
 彼は水平線から私に視線を流して、私の右目に真っ直ぐと突き刺して、答えた。
「ハヤト。羽立隼人だ」
 その声に。その視線に。その言葉に。
 私の心臓は、強く鼓動した。

「ほんと、背、伸びたよね」
 終業式が終わって、いつものように一緒に下駄箱にいって、一緒に校門を出た。最上段の扉からなんなく自分の靴を取り出す彼の横顔をみて、初めて一緒に海に行った日の事を思い出していた。
「いまさら」
 あの時は同じくらいか、まだ私の方が少し高いくらいだったのに。バスケット部だったからか、彼の身長は中学に入ってから急激に伸びた。もとから綺麗な顔立ちだったけど、伸びた身長のお陰もあってすごくすっきりして見えて、かっこよくなった。
 私の身長はそれほど伸びていなかったから、視線は彼の胸くらい。、顔を見て話そうとすると見上げなくなくちゃいけないから、首がひどく疲れる。本当はそうしたいんだけれど、頭が悪そうに見えちゃうからそうしない。彼は頭の悪い女が嫌いだったから。だから並んで歩いて、それぞれが見やすい所に視線を送る。そうやって、声だけで会話する。そんな登下校が私達だった。
「さっき、手紙入ってたよね」
 彼が下駄箱の扉をあけて靴を取り出したとき、一枚のメモ用紙のような物が一緒に飛び出してきた。彼は床に落ちたそれを拾って数秒を見つめた後、片手でくしゃっとつぶして、ブレザーのポケットにしまった。
「ああ、あれね」
 多分、ラブレターなんじゃないかな。きっと、携帯番号とかが書いてあって、可愛い文字で、可愛い文章で、連絡をしてくれる事を願った、そんなオトメな手紙。
「学年とクラスと名前と、あと番号書いてあった。誰かわかんねぇ」
 でもまさか、書いた子もこうやってくしゃっとポケットに突っ込まれるなんて、思わなかっただろうな。かわいそうに。
「直接くればいいのにな?そうすりゃ顔も分かるのに」
 彼はそういってポケットに手を突っ込んで、ため息交じりで言った。
それが出来ないからそうしているのに。気付いてあげなよ。過去に何度もそう言い掛けたけど、今日もやっぱり言うのを辞めた。言った所で分からないと思うから。だって、鈍感だもの。そういうの。
「ああ、そうか」
 彼は突然ひらめいたように呟いて、くしゃくしゃにした愛の告白をポケットから取り出した。
「どうしたの?」
「いやさ、俺もこうしてみたらいいのかって」
「え?何?誰に?」
「苧ヶ瀬に」
 また苧ヶ瀬か、と思った。もちろんこれは彼なりの冗談なのだろうけれど、名前も知らないオトメの気持ちも分かる私には、笑えないことだった。愛想笑いを心がけたけど、きっと私の表情はそのラブレターみたいになってると思う。
「俺、羽立隼人。話したいことがあるから、放課後教室で待ってます、とか」
「なにそれ、ちょっと怖い」
「だよな、俺が貰ったらやっぱり怖いな」
 彼は「いい案だと思ったのになぁ」と呟いて、またそれをポケットに押し込んだ。
 私達がこうして帰るようになって、どれくらい経つのだろう。もう随分とこうしているから、きっと彼は疑問にも思っていないのだろう。
 声色だけで相手の気持ちが分かるとか、私も昔はそう思っていた。でも彼が鈍感で、私が彼に惹かれていくほど、本当にそうなのか、疑問に思うようになった。現に私が苦労して作り上げた不恰好な愛想笑いにも気付いてない。もちろん、私の気持ちにも。こうして顔を見ないで歩くようになって、ゆっくりと相手の顔を見る時間が減っていって。 昔は痛いほどだった彼の視線は、もう随分と私の瞳に突き刺さっていない。そして今その視線は、苧ヶ瀬君の背中ばかり追っている。
 せめてそれが女の子だったらよかったのに。そうだったら、きっとこの恋は終わる事が出来るのに。そんな寂しいことって、ないよ。
「最近冬だってのにあったけぇよなぁ」
 そんな私の気も知れないで、のんきに天気の話なんかをし始める。確かにあきれるほどのんきな晴天で、このままじゃホワイトクリスマスなんてずっとやって来そうにない。
「ねぇ、クリスマス、何してる?」
 彼にとっては唐突な質問に感じたと思う。よっぽど鈍感じゃない限り、デートのお誘いだって気付くと思うのだけれど、やっぱり気付きそうにないから、ただの予定確認だった。
「なんもないよ」
 彼は高校でバスケットボール分には入らなかった。高校に入学してすぐにバンドを組み始めて、軽音楽部を作った。幼少から習っていたというキーボードを、バスケットで鍛えられたごつごつの指で弾いていた。そんな彼はやっぱりかっこよかった。
「部活とか、ライブは?」
「なーんもね。他の連中は女だって」
 彼はいじけるようにして道端の石ころを蹴飛ばした。
「なーんかな、そういうの、めんどくさいよな」
 私の胸に、チクっと刺さるこのフレーズ。
 隼人はモテる。身長がすらっと高くてスタイル良くて、顔が綺麗だった。笑うとくしゃっとなる目元が可愛らしくて、それでいてどこかクールで。文化祭でライブをやれば、黄色い声が沢山聞こえた。
 なのに彼は女にあまり興味がなさそうだった。告白されて浮かれたり、へらへら笑ったりとか、少なくとも私の知る限り、無かった。そればかりかどちらかと言えば冷たいくらいで、さっきみたいに一大決心の告白もくしゃくしゃにしてしまう彼は、主に地味な人種から妬まれていた。かっこいいことを、モテる事を鼻にかけているとか、クールぶってんじゃねぇよ、とか。
 彼の最もそばににいる女は、私だった。クラスの中で、誰々がふられたとか、そういう噂話を聞くたびに、私は少し期待してしまう。私だけ、特別なような気がして。
 だから彼のそのフレーズは、胸に刺さる。彼の言う、「そういうの」に、私も含まれているような気がして。
 私だって、クリスマスは一緒に居たいと思う、オトメだから。
 その笑顔を、私に向けて欲しい。
 その瞳で、私を貫いて欲しい。
 そのごつごつした手で、私に触れて欲しい。
 その大きな腕で、私を抱きしめてほしい。
 私だって、年頃の、恋する、やらしい、オトメだから。
 だから、「そういうの」だとばれないようにしなくちゃ。
 だって、嫌われたくないから。
 彼の側に、ずっと、いたいから。
「どっかいくか、24日」
 いつのまにか三メートルくらい先を行っていた彼が振返って、私を見つめた。久しぶりのこの感覚に、思わず涙が出そうになったけれど、それを堪えた。変な女だと思われちゃうから。
「海」
「あ?」
「じゃあ海がいい」
 私がそう提案すると、彼は不思議そうに眉を寄せて、得心が行かない表情だった。
「いいけど、何で海なんだよ?今からだって行けるだろそんな所」
 あの海にまた会いたい。そしてあの日の彼に、出遭いたい。
 そんな夢見たいな妄想は押し付けがましいかも知れない。
「だってクリスマスだもん」
 でもきっと彼は気づかないだろうから。私の妄想は誰にも迷惑をかけないから。そうやってあの日を思い出して、また明日から頑張るんだ。きっとずっと平行線の、この初恋を。
彼は納得いかなそうなだったけれど、仕方なさそうにため息をついた後、目元に愛らしい皺をつくって、くしゃっと笑った。