ムナゲのつぶやきへようこそ!

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2010年2月27日土曜日

空色イヤホン 四章「ガラス細工と海と空」 苧ヶ瀬修一編 (補充済み 2/28)





 冬休みに入ったからと言って、何かやる事があるのかといえば、そんな事はなかった。
 本当なら今頃は受験勉強のラストスパートをかけていて、死に物狂いで机に向かって、顔中クマだらけにするのが普通なんだろうけれど、僕の場合はそうじゃなかった。特に将来やりたい事なんてなかったから、推薦で適当な大学にさっさと合格してしまっていた。適当と言っても、それなりに無難な大学であるから世間体を気にしなくちゃいけないなんて事もないだろうし、可もなく不可もなく、多分そんな所だろうと思った。
 だからと言って悠々自適に遊びまくっていたかというと、それもやっぱり違うのだった。僕には休日にわざわざ約束を取り付けて遊びに出かけるような友人なんて居なかったし、特に打ち込む趣味も無かった。学校がある日は学校に行けばよかったのだけれど、それがなくなってしまうと、午前中から夕方までの僕の予定表はすっぽりと空白になってしまっていた。その高校初の卒業生の進学を応援する為に、冬休みはかなり長めに設けられていたから、余計に退屈が長引いてしまう結果となった。
 朝いつものように目覚めて、顔を洗って、歯を磨いて、何気なくカレンダーを見て、そういえば今日も学校が休みなんだと思い出す。特にやる事もしたい事も思いつかないから、本棚から過去に読み終えた数冊の本を取り出して、ぱらぱらとめくってみたりもした。一時期推理モノにはまっていたから、本棚に並ぶ小説の大半はミステリーだったのだけれど、展開が分かっているミステリー程つまらないものはない。謎という謎のキーを既に知ってしまっているから、わくわくするような事はない。それでも読み直すことによって、ああ、だからこの人はこんな事を言っていたんだ、という、新たな発見が待っている事はあるけれど、そこに気がつける程鮮明には覚えていないので、やはり面白くなかった。
 だから僕は、その空白となってしまった時間、本来なら学校にいる時間は、海に出かける事にした。
 あの海を眺めている時間は、僕の心が軋むことは無かった。魂の底から身軽になれるような、そんな爽快感すらあった。最近ずっとご機嫌な気分屋お天道様も、海とセットならまた雄大に見えた。
 通いなれた通学路を途中まで進んで、学校の前の長い上り坂に出る。さすが冬休みだけあって、制服に身を包んだ学生は一人も見受けられなかった。結構勾配があって風も吹くから、頭の悪い連中にはパンチラ坂なんて呼ばれていたりもするけれど、今日はそんな不名誉なレッテルを払拭する寡黙な面持ちだった。そのお姿を横目で確認した後、そのまま直進して路地に入った。
 三回目となれば随分となれて、民家の間を縫う複雑にうねったこの道も、そこそこのスピードを維持したまま通り抜ける事が出来る。日に日に海が近くなってくるような感覚がして、嬉しかった。
 防波堤にぶつかって、自転車を停めて、サドルから飛び乗る。そして立ち上がったその瞬間、僕の全身を照らす光と通り抜けていく潮風が快感だった。この海の全部が好きだけれど、もしかしたらこの瞬間が一番好きかも知れない。初めて対面したときの感動が蘇って、今でも背筋に来るものがあった。
 そして目線を右に移して桟橋の先を見る。相変わらず見事にくたびれた桟橋だけれど、その雰囲気にすっかり同化してしまった後姿を確認して、少し笑った。こんな日はまた会えるような予感があって、その通りだったから嬉しくなってしまった。
 防波堤から飛び降りて砂浜に深く足跡をつける。靴に砂が入り込んでこないように気をつけながら歩いて、桟橋に着くと今度は床を落とさないように慎重に足を進めた。
 「こんにちは」
 老人の後ろに立って、しっかりとした発音で挨拶をする。
 彼は初めてみた時からずっと同じ格好で、灰色のコートにねずみ色の帽子を着て、革靴を揃えて脱いで、腰を下ろしていた。
 「こんにちは。また来たのかい、苧ヶ瀬君」
 靴と靴下を脱ぎ捨てて腰かけると、老人は特に振り返りもせず、その水平線の向こうを望みながら返答をした。
 「覚えていてくれたんですね、名前」
 一見無愛想にも見えたけれど、その声は確かに僕を向かいいれてくれている、と思った。それよりも僕の名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。それは多分、僕が人の名前と顔を覚えるのが苦手だからなのだろうけれど。それでも僕の名前は決して覚え易くはないと思う。漢字が難しいし、響きも普遍的とは言えないから。
 「珍しい苗字だったからね、印象的だったんだよ」
 なるほど、と思った。珍しいものだから、印象的。確かにその通りだった。
 僕たちはそれからしばらくはただ海を眺めていた。特に何かを口にする訳でもなく、自然が織り成すその旋律に耳を傾けていた。人間が作り出す音とは違って、自然の音は暖かい。どんなに大きな音でもうるさいと感じる事はない。不思議だった。待ち行く人々の会話でさえうるさいと感じてしまうのに。この景色が生み出す全ての音色は、僕の鼓膜から全身を伝わって、心地よく反響する。
 「昨日はありがとうございました。」
 ふいに、お礼を言わなくてはならない事を思い出した。老人は突然の言葉に、計りかねているようだった。
 「ガラスのカモメ、嬉しかったです。さっそく机に飾っておきました」
 「ああ」
 そこまで言って、老人は理解したようだった。首から上を少しだけ僕のほうに向けて、僕の表情を伺っている。
 「机が賑やかになりましたよ」
 「そうかい、それはよかった」
 あの後老人はすぐにその場から立ち去ってしまったから、ゆっくり礼を言う時間が無かったのだった。あれだけ美しいカモメだから、きっと高価なものなのだろう。それを頂いておきながら、反射的なありがとうしか言えないなんて。
 「昨日、おじさんが作ったものだ、って言ったいたけれど、ああいうのが専門なんですか?」
 僕は興味がひかれたことを素直に聞いてみた。もし他にも沢山あるのなら、是非見てみたい。そういう打算的な事が無かったと言えば嘘になってしまうけれど。
 老人は少しはにかんで、その目じりに皺を作った。
 「私は元々、ガラス職人でね。普段はグラスや食器等を作っていたんだがね」
 「グラスって、コップとかワイングラスとか、そういう奴ですか?」
 「ああ。孫娘が出来てね、何か喜んでもらえるものを作れないか、と思って作り始めたのがきっかけなのだよ」
 「お孫さん、いらっしゃるんですね。いいんですか?そんなものを頂いてしまって」
 「いいんだよ。もう結構年頃なのだがね。最初は趣味のようなものだったんだが、作っているうちにその面白さに取り付かれていてね。気がついたらそれが仕事になっていたよ」
 老人のコートからのぞくシャツには、ガラス細工のカフスボタンが取り付けられていた。複雑な反射を起こしていて、きらきらと眩しい。
 「そのカフスも、おじさんが?」
 「ああ、これは実験的に作ったものなんだがね、なんだかんだ、使い続けていてね」
 「へぇ、すごく綺麗ですね」
 「ありがとう。でも息子には、こんなに派手なもんは仕事じゃ使えないと言われてしまったが」
 「あ、確かにそうかもしれませんね」
 コートの袖を膜って陽光にさらされたカフスは様々な色合いを見せた。僕にはとてもお洒落に見えるのだけれど、社会人のルールって言うのは、僕には分からない難しい所があるのだろう。
 「ガラスには魔力があるんだよ」
 「魔力、ですか?」
 「ああ、そう、魔力。人ははるか昔からその魔力に気がついていた」
 「え、それ本当ですか?」
 老人は僕の表情を伺って、胸ポケットから何かを取り出した。
 「これをみてごらん」
 「これは、さいころ、ですか?」
 「そう、ガラスのね。何も書いていない、ガラスで出来た立方体だよ」
 「これが、魔力と関係があるのですか?」
 「それを空にかざしてみてごらん」
 僕はそのガラスの立方体を親指と人差し指でつまむように持ち上げて、頭上に持ち上げてみる。
ミステリーを読み漁っていた僕にとて、科学的説明のつかない「魔力」等というものは到底信じられないのだけれど、老人が言うとなぜかそれっぽく感じてしまう。
 「覗いてごらん」
 「こう、?」
 「何が見える?」
 「え、何も」
 「そうじゃない、その向こう側だ」
 僕は左目を閉じて、右目でそのサイコロを注意深く観察した。そのサイコロの中には何もないし、向こう側の空が透けて見えるだけだ。
 いや、そうじゃない。
 僕は左目を開ける。
 「あ」
 「どうだい?」
 「はい、少しだけ、緑色に見えます」
 ガラスを通した世界は、少しだけ緑がかって見えた。手のひらの上で確認したときは確かに無色透明だったのだけれども、今こうして右目に映る空は、左目が見ているそれと違っていた。サイコロの角度を変えれば、空の色もまた変わった。より青く染まったり、赤く縁取られたり。眩しいくらいに光り輝いたりもした。その頂点から繋がる三面それぞれが違う表情を見せている。
 「すごい、色が変わる」
 「そう、その通りだ」
 僕はそのサイコロを下ろして、もう一度左手の手のひらの上に置いてみる。そのサイコロを通して見える僕の皮膚は、変わらず同じ色をしていた。
 「ガラスは確かに無色透明だ。それ自体に色はない。だが、我々が普段見る事の出来ない、光の色を見せてくれる」
 老人は僕の手のひらからそのサイコロを受け取って、再び胸ポケットの中にしまった。
 「君には、あの海が何色に見えるかね」
 「え、青じゃないんですか?」
 「そうだね。だが、本当はそうじゃない」
 「あ、授業で習いました。たしか青い光りの波長だけがどうとか言う」
 「そう。我々の居る所には青い光りが多く届いているからそう見えるだけだ。はるか向こうの人々がみたこの空は赤や緑に見えているのだよ」
 「緑にも、ですか?」
 「そう見える事は稀だがね。だが人が虹を七色として見えるように、理論上はその全ての色に見えるのだよ」
 「七色もですか?」
 僕にはもちろん、空が紫色や黄色に見えた事はなかった。
 「だからそう、空の本当の色は、青とは言い切れない。それは我々の幻想に過ぎないのだから。現に、そうやってガラスを通して見た空は、青いとは限らない」
 「確かに、いろんな色に見えた」
 「だとしたら、ガラスにはその幻想を取り払う力があるのではないか」
 老人はそういって、僕の表情を伺った。僕は理系の人間ではなかったから、光の屈折とか、難しい話は得意じゃなかった。
 「えっと」
 「いや、いいのだよ。そんな話もあると言うだけだよ」
 老人は再びその細い目を水平線の向こうへ送った。
 僕は少しの間、考えた。
 光りの色。
 ガラスの魔力。
 空の本当の色。
 そして人間の幻想。
 色々とめぐらせて見たけれど、やっぱり良く分からなかった。こうして見渡してみても、僕の網膜に映る世界は変わらずにいて、空は青くて、海も青かった。だから当然、空や海が青くないかも知れないという可能性は、僕の意識にはしっくり来なかった。
 それは、僕が見ている世界が、本当の世界ではないかも知れない、という事なのだろうか。
 「聞いてもいいですか?」
 「なんだね?」
 「あの、おじさんの目には、空は何色に見えているんですか?」
 僕がそう聞くと、老人は眉を細めて僕の目を見つめた。その瞳には海の青が映し出されていて、また寂しそうに見えた。
 「昔は、青色に見えていたよ」
 そういって、老人は空を仰いだ。

 
 その後僕たちはずっと水平線を眺めていた。やがて日が傾いで空が赤く染まり始めると、自然と身支度をして、特に何をする訳でもなく帰路についていた。
辺りが薄暗くなってくると、海からの風もいよいよ身を切るようになってきて、冬が近いのだという事を実感させた。
 路地を抜けて、パンチラ坂を横切って商店街に入る。自宅に戻るにはいつもこの商店街を通過しているけれど、緩やかな長い下り坂が続いてて、パンチラ坂を勢いお良く下ってくればほとんど漕がずに自宅近くまで来る事が出来る。今日はその反動がないから、自転車はチキチキと音を立てながらゆっくり進んでいく。耳に差し込んだイヤホンが空気を切り裂いてヒューヒューと音を立てていた。
 「また名前、聞きそびれちゃったな」
 そんな音に耳を傾けながら、老人の事を思い出していた。自分の名前を名乗っておきながら、相手の名前を聞いていない事を、今更ながらに思い出しているようで、そんな自分に少し傷ついた。
 「また明日会えるかな」
 そう期待をこめて、ようやく自転車のペダルに足をかけて、帰路を急いだ。
 遠く見える山並みが、夕焼けに紅く染まっている。



 


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