イヤホンをするのが好きだった。
耳の奥の方までゆっくり差し込むと、ごそごそと、耳の内側とイヤホンのゴムの部分がこすれ合う音が体中に響き渡って、それが少し煩いけれど、それも少しの間だけで。
女子高生の甲高い声も、唸るような機械の駆動音も、何もかもが静かになった。膜のような物が僕と世界との間に入り込んで、雑踏という雑踏が聴覚から遠のいて、僕を傷つける不快なモノから遠ざけてくれた。
そしてしばらくすると、今度は別の音がやって来る。さっきまでは埋もれてしまっていた、僕の音。心臓の鼓動、肋骨が膨らむ音、鼻から抜けていく空気の音や、唾を飲み込む音。
こうなってしまえば、全ては僕にとって無関係だった。膜の外で起こること、それは、僕の世界じゃない、別の世界で起こることだった。まるで世界から隔離されて、僕だけがそこにいるかのような錯覚。
錯覚だと分かっているけれど、それは僕をひどく穏やかにさせた。
答えの見つからない自問自答に頭を抱えることも、理想と本音の葛藤に心乱されることもなくなった。
だから、イヤホンをするのが好きだった。
イヤホンを耳にはめるという行為は、音楽を聴く為にはなかった。
少なくとも僕には、それが全てだった。
老人
その日、僕は老人と出会った。
最初に見たのは二日前で、終業式の帰りだった。
澄んだ青空がどこまでも続いていて、眩しい太陽が辺りを陽気にさせていた。これからいよいよ冬休みを迎えようというのに、日光はそんなことはおかまいなしとばかりに降り注いでいて。お天道様がそんな調子だったから、小鳥や草花、縁側の猫や散歩中の犬も、どこか浮かれている。
だから、僕もきっと浮かれていて。普段は思いつきすらしないのに、寄り道をしてみようと思った。
鬱陶しい終業式は午前中で片付いて、晴天。まさに絶好の散歩日和だった。
校門を出てすぐ目の前にある長い下り坂を終えて、最初の交差点を右に入って15分程進むと、僕の住む家がある。この長くて勾配もある下り坂は自転車通学の僕にとって下校は特急コースだけれど、登校時は文字通り坂を登り続けなくてはならないから、帰宅時の倍の30分もかかって、各駅停車だった。
ハンドルを握り締めて、通いなれた道とは反対側に重心を傾けて、路地に滑り込んでいく。 最初の交差点を左に折れてしばらく進むと海にぶち当たる。白い砂浜が広がる綺麗な海岸が続いていてデートに最適、とクラスメイトの誰かが言っていたのを思い出した。デートだとか、そういうロマンチックな事には全く興味はなかったのだけれど、そんな場所があるのなら一度は見ておきたいと、頭の片隅に潜めてあった。
そこで自転車を捨てて、歩こう。
せっかく沿岸の高校に入学したのだから、もったいないと思った。冬休みが明けると寒さは本格的になっているだろうし、明ければあっという間に卒業だ。
路地を抜けると、コンクリートの防波堤が姿を現した。身の丈程もあってその先は見えないのだけれど、潮の気配がそれを乗り越えてやってくる。
海がある、そう感じた。
防波堤に沿って少し行けば難なく通れる所があるのだろうけれど、とにかく早く海と対面したかった。自転車を防波堤に沿うように停めて、制服のお尻が汚れる事なんて気にも留めず、革靴のままサドルを踏み台にしてよじ登った。右足がコンクリートにかかってなんとか体を持ち上げると、焼きつくような眩い光が網膜に飛び込んで来てよろけそうになった。続いて少し生臭い潮の香りと大自然のプレッシャーが僕の体を押し戻そうとする。ぐっと堪えて顔を上げると、真っ白な砂浜が広がっていた。
防波堤に立ち上がって水平線を見渡す。穏やかな水面が光を反射させてここまで水平に光が飛んで来ていた。そこには無いはずなのに、まるで太陽を直接見ているかのような、それほどに眩しい海岸線だった。その境界線が不明瞭になってしまう程に青く染まった海と空。それだけなのに、それで十分だった。
興奮は衝動を生むかと思っていたけれど、それはすぐに別の感情によって奥へと押し込まれてしまった。 背筋に震えるものがある。
もう少しこの光景を焼き付けておきたいと、眼がそう言っている。
足はその場に吸着されてしまったように動かない。
全身が、この出会いを受け止めようとしている。
僕は今、海に感動している。
体の支配権が感動から自身の意識へ返還されると、体は自然に前へ進もうとした。飛び降りて、その砂の感触を足の裏が捕らえる。
やわらかい。
どうやら波は随分長い間、この辺りまでやってきていないらしい。からからに乾いて、さらさらだった。
数歩進んで、この眩しさの共犯者に気付く。下から向かってくるこの光は、まるで粉雪のように白く肌理が細かい砂のせいだった。水面から放たれた陽光が砂浜で弾けて、きらきらと眩しい。最初に網膜を射したのはこいつだろう。
風がとても心地よかった。ブレザーとマフラーの隙間から胸と腋の下を通り抜ける空気はとても冷たいけれど、不思議と嫌では無かった。体を動かしていれば丁度良いくらいに感じられた。
懐かしい、潮の匂い。どこかあまくて、少し生臭いような、でもとても優しい香りだった。
なんてもったいない三年間だったのだろう。
波打ち際に立って水平線を眺めながら、ふとそう思った。 この場所に来た事で、他のどんなストレス解消法よりも心が身軽になった。これなら腹痛で保健室にお世話になる事も、早退の口実をひねり出す為の余計な労力を消費せずに済んだのに。
あの学校にいて。本当に何もない三年間だったけれど、せめてこの景色ともっと早く出遭えていたら。その高校生活も悪くなかったと、そう思えた気がする。
それからしばらく、僕の体は光と風に洗い流されるようだった。
一羽のカモメが目前を通り過ぎて、その軌道を無意識に追っていたら、桟橋が掛かっている事に気がついた。
そしてその桟橋の先に、人間がぽつり。淡い灰色のコートにねずみ色のハットを被り、桟橋の先に腰かけて、水平線を眺めている。長めの襟足は白髪の割合がひどく多い。
その時僕はこの浜辺にすっかり魅入ってしまっていたから、きっとあの老人もその一人なんだろうなと、反射的にそう考えた。
独り占めだと思っていたのに。
本当は自分もその桟橋を歩いて見たかったのだけれど、今あの桟橋はあの老人のもののような気がして、それを横取りするのはひどく無粋な事のように思えた。
また今度、来ればいい。
自転車にまたがって、街中の風をかきわけていく。家路につく中、あの海の事を想った。
教室の窓から水平線が見えた事など一度もなかったのに、それでもいつでも通える程の距離だった。あの場所は僕お気に入りの場所で、きっと大切な場所になる。そう思った。
それから三日たって、家を飛び出した。進路の事で母親と喧嘩した。
心配してくれているのは分かっているつもりだった。けれども今の僕にとってそれは窮屈でしかなかった。
それに耐え切れなくなって、イヤホンを手にとって、かけ出していた。
空は呆れるほど真っ青に光り輝いていた。
きっとこうしてぐずぐずと濁っている僕をあざ笑っているのだろう。そうじゃなければ、僕の気持ちなんて露知らずなんだろう。優しい日差しも、同情のように感じた。
そう、あの、大人たちが僕の肩に手を置いて投げかける、あの言葉に似ている。
自分には何もなかった。
特技もないし、情熱もなかった。
高校生活の三年間はまさに防戦一方で、外の世界から身を守る事で一生懸命だったから。
だから、将来の夢だとか、目標だとか。そんな不確定の要素を力強く掲げる事なんて、出来なかった。
僕にとってこの世界はいつだって卑怯だった。
重要な時には知らん顔をしているくせに、忘れたい時に限って必要に追いかけてくる。それがどれほど残酷な事なのか。
だからまた僕はイヤホンを奥深く差し込んで、そいつらを外の世界に押しやった。
「そんなの言い訳だよ」 無意識に漏れた自分の言葉に驚いた。そして自身が一番傷ついた。
それを聞いて君はなんていうのだろう。
当ても無く自転車を押して歩いた。もう三年も経つのに、僕はこの街の事を何も知らない。こんな時、どうやって時間を潰せば良いのか、見当がつかない。ゲームセンターなんてハイカラなものはこの街には無いし、通学路の商店街に目新しいものはもう見当たらない。 完全にナーバスだった。幸福な時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのに、こうやって自責を重ねる時間というのは残酷なほど長い。おおよそ人間というのはひどく単純に出来ているんだなぁと思う。
ふと、昨日の出会いを思い出した。この空と同じ、鮮明な、透明感のある青色が一面に広がる景色。
海は、僕を救ってくれるだろうか。
気がつけば自転車に飛び乗って、力強くペダルを蹴っていた。
晴天の海は思ったとおり美しくて、僕を優しく向かいいれてくれた。
水平線の向こう、カモメ達の群れが見える。一面を青色のコンストラストが占める中、悠然と煌めくその白は鮮烈で、とても綺麗だ。
鳥はずるいよ。僕もそうして、のびのびと翼を広げて、美しく舞いたい。
どこまでも感傷的な僕だった。
ふと桟橋の先に眼をやると、またあの老人の姿が見えた。先客だった。淡い灰色のコートを着て、ねずみ色のハットを被って、腰を下ろしてその水平線を眺めている。三日前と、同じ。
今日くらいは譲ってくれてもいいのにな。
そうじゃなくても、せめて、共有はさせてほしい。
桟橋は古い木造で、そこら中に穴が空いていた。打ち寄せる波で程よく朽ちたその床板はいい感じで、今にも抜けてしまいそうだった。けれどそんな佇まいがこの景色には良く似合っていた。立ち入り禁止の立て看板が無い事を確認して、足を置く位置を慎重に選びながら進む。歩いてみると思いのほか丈夫な構造で、ちっとも軋まなかった。抜けた床から見える海面は今日も穏やかで、中々の透明度だった。徐々に深くもぐっていく砂浜の底のたわみも見える、綺麗な海。 桟橋は遠くから見るよりもずっと長くて、海底まで随分あるように思える。間違って衣服のまま足を滑らせたら、泳ぎの得意な人だって溺れてしまうかも知れない。
より一層丁寧な足取りで、老人のすぐ後ろまでやって来た。
人の気配を感じているだろうに、老人は振り向かない。
声をかけるのをやめようかとも思ったけれど、何もせずに帰ったらいたずらに神経をすり減らしただけな気がして、なんだかくやしい。せっかくこんな所まで来たのだからと思い留まった。
「あの」
取り合えずで、精一杯の一言だった。声量は十分だったつもりだけれどその精一杯も老人には届かなかったのか、依然老人は海岸線から目線を離すことは無かった。
「あのー、す、すいません」
少しむきになっていたように感じる。こんな時にも不甲斐無い自分に嫌気が差した。依然として反応を示さない老人に話しかける事を諦めようとしたその時、老人の肩越しに、眩しい何かが僕の網膜に飛び込んできた。
なんだろう。
不思議に思って覗き込むと、その光は老人の手の中から発せられていた。何かを膝の上で大切そうに抱えている。
「何かな?」
気がつくと老人は少しだけ振返り、こちらを怪訝そうに見つめている。眉を細めればしっかりとシワが入って、白毛まじりのヒゲは日光にさらされて金色に輝いている。
「あ、いや、すみません。ここで何をしてるのかなぁと思って」
その眼光の鋭さに僕は驚いて数歩たじろたけど、すぐに立て直してそう答えた。
少なくとも今の僕には、老人が何かをしている、という風には見えなかった。あえて何かをしているとするならば、ただそこにいて、海を眺めているだけだった。それも、長時間。 手元のそれがこの場所にいる理由だとは思えなかった。釣道具には見えないし、海に来てやる事と言えば、僕にはそれくらいしか思い当たらなかった。 それとも、老人もこの海の魅力にとりつかれた一人という事なのだろうか。初めてその後姿を見たときから、ずっと気になっていた。
老人は僕の目をじっと見て、何かを計った後、またその目線を海岸線へと流した。
「答えを、待っている」
老人はやや掠れた深く優しい声で、そう言った。端的に答えているようで、その実、何の回答にもなっていない。そのシンプルさは業務的と言える程に感情の色を削ぎ落としていて、そのせいなのか排他的にも感じた。だからだろう。そしてそれはきっと老人にとってとても大切なものなんだなと、反射的にそう理解した。言葉の真意は分からないけれど。
「答え、ですか」
だから僕も、確認するようでいてその実何の意味も持たない相槌を打った。というより、僕の乏しいボキャブラリーでは何十もの含みを持ちそうな老人のその回答に対応出来なかった。ゆっくり考える時間があればなんらかしらの意味を持たせた返答が出来たのだろうけれど、予想外のジャブはかわす暇も無かった。
老人は帽子のつばを触って、帽子の位置をやや深めに直した。その背中からは無言の相槌を感じる。
「三日前もいましたよね。その日もこうして答えを待っていたんですか?」
単純な疑問だった。
僕には「答え」という単語が、一体どういう語意で使われているのかまるで見当がつかないのだけれど、もしその「答え」というものを得る為にここにいるのだとしたら。それは三日も前から、辿り着けずにいるという事だと思ったからだった。
老人はやや驚いたような表情で、今度はしっかりとこちらを振返って、僕の表情を伺っている。
「君も三日前に、ここへ来たのかね?」
「ええ、まぁ。偶然ですけど」
今度の声色はさっきと違って物腰が柔らかく、排他的でもない、僕に対してたしかに興味を示している、そういう話方だった。突然の事だったから、言葉が脳を反芻するより前に反射的に飛び出してしまった。自分の方から声をかけて置きながら随分な態度になってしまった。
「もう三年になるかなぁ」
僕の肩を通り越した遠い青空を見つめながら、老人は呟くように答えた。最初はそれがあまりにも小さい声だったから、波の音と混ざって聞き間違いをしたのかと思った。
「三年も、ですか?」
確認するように言葉を発してみる。老人が発した言葉のアクセントは、確かに今僕が発した「三年」という言葉と酷似している。やはり聞き間違いでは無かった。
「君もどうかね?」
必死に状況処理をする僕に、老人は自身のすぐ側を指差して、にっこりと笑った。 そこは桟橋の先端で、ちょうど僕一人腰掛けられるくらいの幅を残していた。老人はこうして桟橋最も沖に近いこの場所に腰を下ろして、素足を海に向けてぶら下げていた。靴が脱げて落ちてしまわないように、あらかじめ脱いで脇綺麗に揃えて並べてあった。
買ったばかりのジーンズが汚れてしまうな、とも思ったけれど、ご厚意に甘えることにした。靴を脱いで、老人の色あせた革靴に綺麗に並べて、腰を下ろす。靴下を履いていたけれど、素足がとても羨ましく思えて、つま先から乱暴に引っ張り脱いで、靴に押し込んだ。 深呼吸をする。
海が近い存在になった気がした。四肢という四肢が陽光と潮風にさらされて、なんだかとても開放的な気分になった。
先輩はこの場所の最高の過ごし方を後輩にきっちりと伝えて、その体勢が整うまで待っていてくれた。僕が深呼吸をして目を輝かせているのを確認すると、老人はその視線を遙か水平線の彼方へ運んだ。
「君はこの場所が好きかね?」
老人の声は僕の体に深く、静かに響き渡った。なんだかもう他人という気がしなくなっていた。この感動を共有する同胞のような、そんな身勝手な親近感が芽生えていた。
「好きです」
それは不思議な錯覚だった。今日始めて会話した、つい先ほどまでは赤の他人だった言うのに。普段の僕からは到底考えられない心境に少し戸惑いながらも、その心地よさに身を任せていた。
「私も昔、この場所がお気に入りだったのだよ」
老人はそういって空を仰いだ。その言葉に何か違和感を感じたのだけれど、僕の意識はすぐにその手元に吸い寄せられる。
老人の手には、何か透明な、ガラスのような物が握られていた。ちらちらと目に刺すような眩しさを発している。
「それって、」
「ああ、これかね?」
僕の言葉に反応して黄昏色から返ってきた老人は、覆いかぶさっていた右手をどけて、左手にそれを乗せてこちらに手渡す。
「鳥・・・カモメ?」
それは透明なガラスで出来た、一羽のカモメだった。張り込んだ光は造形の中で交差して、弾けている。その光のトリックがその造形をより立体的に浮き上がらせていて、眩いばかりで、そしてなにより美しかった。よくよく見るとかなり細部まで作りこんであって、表情も豊かに感じる。それでいて全体的にすらっとした滑らかなシルエットで、見るものを落ち着かせるような。僕に造形美なんてものを嗜む品位はないのだけれど、それがとても素晴らしいガラス細工であるということは分かった。
「そう。この辺りを飛んでいるやつをモチーフにね」
「モチーフ?え、って事はこれ」
「それは私が作ったものなんだよ」
すごいと思った。今までガラス細工なんてのは修学旅行のお土産品等しか見たことが無かったけれど、こんなにも綺麗なものだなんて。
「すごいですね。綺麗」
僕は思ったとおりの事を口にして、素直に感動した。学校にいる時の僕なら、斜めに構えていかにも興味がない振りを決め込んでいたのだろうけれど、そんなつまらないプライドと週間に習うのは、あまりにも品位が無さ過ぎた。
「君はとてもいい表情をしているね。何かいい事でもあったのかね?」
そんな僕を見て、老人は優しい表情でたずねて来た。これが学校の連中が聞いてきた事なら、そこらへんに唾でも吐き捨てたくなるような下世話で嫌味な事なのだけれど、この老人が言うと不思議とそんな気持ちにはならなかった。
「わからないけれど、三日前にこの海を知って。あんまりにも綺麗で気持ちよかったから。で、この場所がすごく気持ちよくて、それで嬉しくて。そして最後にそのカモメ」 そのあまりの素敵さに感動して。
素直に答えたかったけれど、さすがに最後までは恥ずかしくて言えなかった。
「そうか、これが気に入ったかね」
老人は赤らむ僕の顔を見てにっこり笑った。
「うん」
「じゃあこれを君にあげよう」
最初は何を言われているのかが分からなかった。あまりにも突然過ぎて、驚いて。確かに物凄く気に入っていたけれど、まさかそんな事を言われるなんて思いもしなかったから。 だってとても大切そうにしていたから。
「気にする事はない、気に入ったのなら、貰ってやってくれ」
老人はまごまごしている僕を見て、そう付け加えて、左手とガラスのカモメを差し出してくれた。
「いいの?」
「ああ、そのほうがそいつも喜ぶだろう」
カモメを手にとって、その感触を確かめる。老人の優しい手の中で暖められたその温度は、まるでカモメが生きている証のような、体温のように感じた。こんなに出っ張りしているのに、手の中に自然と収まる。良く磨かれた表面がつるつるとしていて、気持ちがいい。
「ありがとう」
僕はそのカモメを胸に抱いて、深々と頭を下げた。それが今の僕に出来る、精一杯の感謝の証だった。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
老人は優しい表情だった。その白髪交じりの髭の両端が少し上がって、目は殆ど閉じていて、目尻をしわくちゃにして。
「さて、私は一度帰るとしよう」
老人はそういって立ち上がると、パンツのお尻についた砂埃をさらっと払って、帽子を目深に被りなおした。何度も見たはずの水平線をもう一度確認するように眺めたあと、目線をこちらに落として聞いてきた。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
僕はその時初めて、まだ名前も名乗っていないということに気がついた。随分親しくなったような錯覚に陥っていたけれど、まだお互いの名前も知らないような距離感だった。僕は慌てて立ち上がって、深呼吸をして、答えた。
「オガセ、苧ヶ瀬修一」
その日、僕は老人と出会った。
耳の奥の方までゆっくり差し込むと、ごそごそと、耳の内側とイヤホンのゴムの部分がこすれ合う音が体中に響き渡って、それが少し煩いけれど、それも少しの間だけで。
女子高生の甲高い声も、唸るような機械の駆動音も、何もかもが静かになった。膜のような物が僕と世界との間に入り込んで、雑踏という雑踏が聴覚から遠のいて、僕を傷つける不快なモノから遠ざけてくれた。
そしてしばらくすると、今度は別の音がやって来る。さっきまでは埋もれてしまっていた、僕の音。心臓の鼓動、肋骨が膨らむ音、鼻から抜けていく空気の音や、唾を飲み込む音。
こうなってしまえば、全ては僕にとって無関係だった。膜の外で起こること、それは、僕の世界じゃない、別の世界で起こることだった。まるで世界から隔離されて、僕だけがそこにいるかのような錯覚。
錯覚だと分かっているけれど、それは僕をひどく穏やかにさせた。
答えの見つからない自問自答に頭を抱えることも、理想と本音の葛藤に心乱されることもなくなった。
だから、イヤホンをするのが好きだった。
イヤホンを耳にはめるという行為は、音楽を聴く為にはなかった。
少なくとも僕には、それが全てだった。
老人
その日、僕は老人と出会った。
最初に見たのは二日前で、終業式の帰りだった。
澄んだ青空がどこまでも続いていて、眩しい太陽が辺りを陽気にさせていた。これからいよいよ冬休みを迎えようというのに、日光はそんなことはおかまいなしとばかりに降り注いでいて。お天道様がそんな調子だったから、小鳥や草花、縁側の猫や散歩中の犬も、どこか浮かれている。
だから、僕もきっと浮かれていて。普段は思いつきすらしないのに、寄り道をしてみようと思った。
鬱陶しい終業式は午前中で片付いて、晴天。まさに絶好の散歩日和だった。
校門を出てすぐ目の前にある長い下り坂を終えて、最初の交差点を右に入って15分程進むと、僕の住む家がある。この長くて勾配もある下り坂は自転車通学の僕にとって下校は特急コースだけれど、登校時は文字通り坂を登り続けなくてはならないから、帰宅時の倍の30分もかかって、各駅停車だった。
ハンドルを握り締めて、通いなれた道とは反対側に重心を傾けて、路地に滑り込んでいく。 最初の交差点を左に折れてしばらく進むと海にぶち当たる。白い砂浜が広がる綺麗な海岸が続いていてデートに最適、とクラスメイトの誰かが言っていたのを思い出した。デートだとか、そういうロマンチックな事には全く興味はなかったのだけれど、そんな場所があるのなら一度は見ておきたいと、頭の片隅に潜めてあった。
そこで自転車を捨てて、歩こう。
せっかく沿岸の高校に入学したのだから、もったいないと思った。冬休みが明けると寒さは本格的になっているだろうし、明ければあっという間に卒業だ。
路地を抜けると、コンクリートの防波堤が姿を現した。身の丈程もあってその先は見えないのだけれど、潮の気配がそれを乗り越えてやってくる。
海がある、そう感じた。
防波堤に沿って少し行けば難なく通れる所があるのだろうけれど、とにかく早く海と対面したかった。自転車を防波堤に沿うように停めて、制服のお尻が汚れる事なんて気にも留めず、革靴のままサドルを踏み台にしてよじ登った。右足がコンクリートにかかってなんとか体を持ち上げると、焼きつくような眩い光が網膜に飛び込んで来てよろけそうになった。続いて少し生臭い潮の香りと大自然のプレッシャーが僕の体を押し戻そうとする。ぐっと堪えて顔を上げると、真っ白な砂浜が広がっていた。
防波堤に立ち上がって水平線を見渡す。穏やかな水面が光を反射させてここまで水平に光が飛んで来ていた。そこには無いはずなのに、まるで太陽を直接見ているかのような、それほどに眩しい海岸線だった。その境界線が不明瞭になってしまう程に青く染まった海と空。それだけなのに、それで十分だった。
興奮は衝動を生むかと思っていたけれど、それはすぐに別の感情によって奥へと押し込まれてしまった。 背筋に震えるものがある。
もう少しこの光景を焼き付けておきたいと、眼がそう言っている。
足はその場に吸着されてしまったように動かない。
全身が、この出会いを受け止めようとしている。
僕は今、海に感動している。
体の支配権が感動から自身の意識へ返還されると、体は自然に前へ進もうとした。飛び降りて、その砂の感触を足の裏が捕らえる。
やわらかい。
どうやら波は随分長い間、この辺りまでやってきていないらしい。からからに乾いて、さらさらだった。
数歩進んで、この眩しさの共犯者に気付く。下から向かってくるこの光は、まるで粉雪のように白く肌理が細かい砂のせいだった。水面から放たれた陽光が砂浜で弾けて、きらきらと眩しい。最初に網膜を射したのはこいつだろう。
風がとても心地よかった。ブレザーとマフラーの隙間から胸と腋の下を通り抜ける空気はとても冷たいけれど、不思議と嫌では無かった。体を動かしていれば丁度良いくらいに感じられた。
懐かしい、潮の匂い。どこかあまくて、少し生臭いような、でもとても優しい香りだった。
なんてもったいない三年間だったのだろう。
波打ち際に立って水平線を眺めながら、ふとそう思った。 この場所に来た事で、他のどんなストレス解消法よりも心が身軽になった。これなら腹痛で保健室にお世話になる事も、早退の口実をひねり出す為の余計な労力を消費せずに済んだのに。
あの学校にいて。本当に何もない三年間だったけれど、せめてこの景色ともっと早く出遭えていたら。その高校生活も悪くなかったと、そう思えた気がする。
それからしばらく、僕の体は光と風に洗い流されるようだった。
一羽のカモメが目前を通り過ぎて、その軌道を無意識に追っていたら、桟橋が掛かっている事に気がついた。
そしてその桟橋の先に、人間がぽつり。淡い灰色のコートにねずみ色のハットを被り、桟橋の先に腰かけて、水平線を眺めている。長めの襟足は白髪の割合がひどく多い。
その時僕はこの浜辺にすっかり魅入ってしまっていたから、きっとあの老人もその一人なんだろうなと、反射的にそう考えた。
独り占めだと思っていたのに。
本当は自分もその桟橋を歩いて見たかったのだけれど、今あの桟橋はあの老人のもののような気がして、それを横取りするのはひどく無粋な事のように思えた。
また今度、来ればいい。
自転車にまたがって、街中の風をかきわけていく。家路につく中、あの海の事を想った。
教室の窓から水平線が見えた事など一度もなかったのに、それでもいつでも通える程の距離だった。あの場所は僕お気に入りの場所で、きっと大切な場所になる。そう思った。
それから三日たって、家を飛び出した。進路の事で母親と喧嘩した。
心配してくれているのは分かっているつもりだった。けれども今の僕にとってそれは窮屈でしかなかった。
それに耐え切れなくなって、イヤホンを手にとって、かけ出していた。
空は呆れるほど真っ青に光り輝いていた。
きっとこうしてぐずぐずと濁っている僕をあざ笑っているのだろう。そうじゃなければ、僕の気持ちなんて露知らずなんだろう。優しい日差しも、同情のように感じた。
そう、あの、大人たちが僕の肩に手を置いて投げかける、あの言葉に似ている。
自分には何もなかった。
特技もないし、情熱もなかった。
高校生活の三年間はまさに防戦一方で、外の世界から身を守る事で一生懸命だったから。
だから、将来の夢だとか、目標だとか。そんな不確定の要素を力強く掲げる事なんて、出来なかった。
僕にとってこの世界はいつだって卑怯だった。
重要な時には知らん顔をしているくせに、忘れたい時に限って必要に追いかけてくる。それがどれほど残酷な事なのか。
だからまた僕はイヤホンを奥深く差し込んで、そいつらを外の世界に押しやった。
「そんなの言い訳だよ」 無意識に漏れた自分の言葉に驚いた。そして自身が一番傷ついた。
それを聞いて君はなんていうのだろう。
当ても無く自転車を押して歩いた。もう三年も経つのに、僕はこの街の事を何も知らない。こんな時、どうやって時間を潰せば良いのか、見当がつかない。ゲームセンターなんてハイカラなものはこの街には無いし、通学路の商店街に目新しいものはもう見当たらない。 完全にナーバスだった。幸福な時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのに、こうやって自責を重ねる時間というのは残酷なほど長い。おおよそ人間というのはひどく単純に出来ているんだなぁと思う。
ふと、昨日の出会いを思い出した。この空と同じ、鮮明な、透明感のある青色が一面に広がる景色。
海は、僕を救ってくれるだろうか。
気がつけば自転車に飛び乗って、力強くペダルを蹴っていた。
晴天の海は思ったとおり美しくて、僕を優しく向かいいれてくれた。
水平線の向こう、カモメ達の群れが見える。一面を青色のコンストラストが占める中、悠然と煌めくその白は鮮烈で、とても綺麗だ。
鳥はずるいよ。僕もそうして、のびのびと翼を広げて、美しく舞いたい。
どこまでも感傷的な僕だった。
ふと桟橋の先に眼をやると、またあの老人の姿が見えた。先客だった。淡い灰色のコートを着て、ねずみ色のハットを被って、腰を下ろしてその水平線を眺めている。三日前と、同じ。
今日くらいは譲ってくれてもいいのにな。
そうじゃなくても、せめて、共有はさせてほしい。
桟橋は古い木造で、そこら中に穴が空いていた。打ち寄せる波で程よく朽ちたその床板はいい感じで、今にも抜けてしまいそうだった。けれどそんな佇まいがこの景色には良く似合っていた。立ち入り禁止の立て看板が無い事を確認して、足を置く位置を慎重に選びながら進む。歩いてみると思いのほか丈夫な構造で、ちっとも軋まなかった。抜けた床から見える海面は今日も穏やかで、中々の透明度だった。徐々に深くもぐっていく砂浜の底のたわみも見える、綺麗な海。 桟橋は遠くから見るよりもずっと長くて、海底まで随分あるように思える。間違って衣服のまま足を滑らせたら、泳ぎの得意な人だって溺れてしまうかも知れない。
より一層丁寧な足取りで、老人のすぐ後ろまでやって来た。
人の気配を感じているだろうに、老人は振り向かない。
声をかけるのをやめようかとも思ったけれど、何もせずに帰ったらいたずらに神経をすり減らしただけな気がして、なんだかくやしい。せっかくこんな所まで来たのだからと思い留まった。
「あの」
取り合えずで、精一杯の一言だった。声量は十分だったつもりだけれどその精一杯も老人には届かなかったのか、依然老人は海岸線から目線を離すことは無かった。
「あのー、す、すいません」
少しむきになっていたように感じる。こんな時にも不甲斐無い自分に嫌気が差した。依然として反応を示さない老人に話しかける事を諦めようとしたその時、老人の肩越しに、眩しい何かが僕の網膜に飛び込んできた。
なんだろう。
不思議に思って覗き込むと、その光は老人の手の中から発せられていた。何かを膝の上で大切そうに抱えている。
「何かな?」
気がつくと老人は少しだけ振返り、こちらを怪訝そうに見つめている。眉を細めればしっかりとシワが入って、白毛まじりのヒゲは日光にさらされて金色に輝いている。
「あ、いや、すみません。ここで何をしてるのかなぁと思って」
その眼光の鋭さに僕は驚いて数歩たじろたけど、すぐに立て直してそう答えた。
少なくとも今の僕には、老人が何かをしている、という風には見えなかった。あえて何かをしているとするならば、ただそこにいて、海を眺めているだけだった。それも、長時間。 手元のそれがこの場所にいる理由だとは思えなかった。釣道具には見えないし、海に来てやる事と言えば、僕にはそれくらいしか思い当たらなかった。 それとも、老人もこの海の魅力にとりつかれた一人という事なのだろうか。初めてその後姿を見たときから、ずっと気になっていた。
老人は僕の目をじっと見て、何かを計った後、またその目線を海岸線へと流した。
「答えを、待っている」
老人はやや掠れた深く優しい声で、そう言った。端的に答えているようで、その実、何の回答にもなっていない。そのシンプルさは業務的と言える程に感情の色を削ぎ落としていて、そのせいなのか排他的にも感じた。だからだろう。そしてそれはきっと老人にとってとても大切なものなんだなと、反射的にそう理解した。言葉の真意は分からないけれど。
「答え、ですか」
だから僕も、確認するようでいてその実何の意味も持たない相槌を打った。というより、僕の乏しいボキャブラリーでは何十もの含みを持ちそうな老人のその回答に対応出来なかった。ゆっくり考える時間があればなんらかしらの意味を持たせた返答が出来たのだろうけれど、予想外のジャブはかわす暇も無かった。
老人は帽子のつばを触って、帽子の位置をやや深めに直した。その背中からは無言の相槌を感じる。
「三日前もいましたよね。その日もこうして答えを待っていたんですか?」
単純な疑問だった。
僕には「答え」という単語が、一体どういう語意で使われているのかまるで見当がつかないのだけれど、もしその「答え」というものを得る為にここにいるのだとしたら。それは三日も前から、辿り着けずにいるという事だと思ったからだった。
老人はやや驚いたような表情で、今度はしっかりとこちらを振返って、僕の表情を伺っている。
「君も三日前に、ここへ来たのかね?」
「ええ、まぁ。偶然ですけど」
今度の声色はさっきと違って物腰が柔らかく、排他的でもない、僕に対してたしかに興味を示している、そういう話方だった。突然の事だったから、言葉が脳を反芻するより前に反射的に飛び出してしまった。自分の方から声をかけて置きながら随分な態度になってしまった。
「もう三年になるかなぁ」
僕の肩を通り越した遠い青空を見つめながら、老人は呟くように答えた。最初はそれがあまりにも小さい声だったから、波の音と混ざって聞き間違いをしたのかと思った。
「三年も、ですか?」
確認するように言葉を発してみる。老人が発した言葉のアクセントは、確かに今僕が発した「三年」という言葉と酷似している。やはり聞き間違いでは無かった。
「君もどうかね?」
必死に状況処理をする僕に、老人は自身のすぐ側を指差して、にっこりと笑った。 そこは桟橋の先端で、ちょうど僕一人腰掛けられるくらいの幅を残していた。老人はこうして桟橋最も沖に近いこの場所に腰を下ろして、素足を海に向けてぶら下げていた。靴が脱げて落ちてしまわないように、あらかじめ脱いで脇綺麗に揃えて並べてあった。
買ったばかりのジーンズが汚れてしまうな、とも思ったけれど、ご厚意に甘えることにした。靴を脱いで、老人の色あせた革靴に綺麗に並べて、腰を下ろす。靴下を履いていたけれど、素足がとても羨ましく思えて、つま先から乱暴に引っ張り脱いで、靴に押し込んだ。 深呼吸をする。
海が近い存在になった気がした。四肢という四肢が陽光と潮風にさらされて、なんだかとても開放的な気分になった。
先輩はこの場所の最高の過ごし方を後輩にきっちりと伝えて、その体勢が整うまで待っていてくれた。僕が深呼吸をして目を輝かせているのを確認すると、老人はその視線を遙か水平線の彼方へ運んだ。
「君はこの場所が好きかね?」
老人の声は僕の体に深く、静かに響き渡った。なんだかもう他人という気がしなくなっていた。この感動を共有する同胞のような、そんな身勝手な親近感が芽生えていた。
「好きです」
それは不思議な錯覚だった。今日始めて会話した、つい先ほどまでは赤の他人だった言うのに。普段の僕からは到底考えられない心境に少し戸惑いながらも、その心地よさに身を任せていた。
「私も昔、この場所がお気に入りだったのだよ」
老人はそういって空を仰いだ。その言葉に何か違和感を感じたのだけれど、僕の意識はすぐにその手元に吸い寄せられる。
老人の手には、何か透明な、ガラスのような物が握られていた。ちらちらと目に刺すような眩しさを発している。
「それって、」
「ああ、これかね?」
僕の言葉に反応して黄昏色から返ってきた老人は、覆いかぶさっていた右手をどけて、左手にそれを乗せてこちらに手渡す。
「鳥・・・カモメ?」
それは透明なガラスで出来た、一羽のカモメだった。張り込んだ光は造形の中で交差して、弾けている。その光のトリックがその造形をより立体的に浮き上がらせていて、眩いばかりで、そしてなにより美しかった。よくよく見るとかなり細部まで作りこんであって、表情も豊かに感じる。それでいて全体的にすらっとした滑らかなシルエットで、見るものを落ち着かせるような。僕に造形美なんてものを嗜む品位はないのだけれど、それがとても素晴らしいガラス細工であるということは分かった。
「そう。この辺りを飛んでいるやつをモチーフにね」
「モチーフ?え、って事はこれ」
「それは私が作ったものなんだよ」
すごいと思った。今までガラス細工なんてのは修学旅行のお土産品等しか見たことが無かったけれど、こんなにも綺麗なものだなんて。
「すごいですね。綺麗」
僕は思ったとおりの事を口にして、素直に感動した。学校にいる時の僕なら、斜めに構えていかにも興味がない振りを決め込んでいたのだろうけれど、そんなつまらないプライドと週間に習うのは、あまりにも品位が無さ過ぎた。
「君はとてもいい表情をしているね。何かいい事でもあったのかね?」
そんな僕を見て、老人は優しい表情でたずねて来た。これが学校の連中が聞いてきた事なら、そこらへんに唾でも吐き捨てたくなるような下世話で嫌味な事なのだけれど、この老人が言うと不思議とそんな気持ちにはならなかった。
「わからないけれど、三日前にこの海を知って。あんまりにも綺麗で気持ちよかったから。で、この場所がすごく気持ちよくて、それで嬉しくて。そして最後にそのカモメ」 そのあまりの素敵さに感動して。
素直に答えたかったけれど、さすがに最後までは恥ずかしくて言えなかった。
「そうか、これが気に入ったかね」
老人は赤らむ僕の顔を見てにっこり笑った。
「うん」
「じゃあこれを君にあげよう」
最初は何を言われているのかが分からなかった。あまりにも突然過ぎて、驚いて。確かに物凄く気に入っていたけれど、まさかそんな事を言われるなんて思いもしなかったから。 だってとても大切そうにしていたから。
「気にする事はない、気に入ったのなら、貰ってやってくれ」
老人はまごまごしている僕を見て、そう付け加えて、左手とガラスのカモメを差し出してくれた。
「いいの?」
「ああ、そのほうがそいつも喜ぶだろう」
カモメを手にとって、その感触を確かめる。老人の優しい手の中で暖められたその温度は、まるでカモメが生きている証のような、体温のように感じた。こんなに出っ張りしているのに、手の中に自然と収まる。良く磨かれた表面がつるつるとしていて、気持ちがいい。
「ありがとう」
僕はそのカモメを胸に抱いて、深々と頭を下げた。それが今の僕に出来る、精一杯の感謝の証だった。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
老人は優しい表情だった。その白髪交じりの髭の両端が少し上がって、目は殆ど閉じていて、目尻をしわくちゃにして。
「さて、私は一度帰るとしよう」
老人はそういって立ち上がると、パンツのお尻についた砂埃をさらっと払って、帽子を目深に被りなおした。何度も見たはずの水平線をもう一度確認するように眺めたあと、目線をこちらに落として聞いてきた。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
僕はその時初めて、まだ名前も名乗っていないということに気がついた。随分親しくなったような錯覚に陥っていたけれど、まだお互いの名前も知らないような距離感だった。僕は慌てて立ち上がって、深呼吸をして、答えた。
「オガセ、苧ヶ瀬修一」
その日、僕は老人と出会った。
すごくいい感じ・・・綺麗な海が目に浮かぶよ。
返信削除ところで、オガセが老人からカモメを手渡されたところ、
~そんなつまらないプライドと週間に習うのは~
週間× 習慣○
じゃないかな。。
今後に期待して続き読ませてもらいます!!
ありがとうございます!早速修正しますね!
返信削除コメントすっごい嬉しいです!
ムナゲ